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心くんが立ち上がる。
「では凪さん、お茶でも飲みながらびっくりしたお話を聞かせてください」
「よかった~誰も聞いてくれないのかと思った」
ほっとしながらそう言うと、立ち上がった瑞葉ちゃんのスマホストラップが目に入る。あれは「妊娠中マーク」だ。
「あれ? 瑞葉ちゃんって赤ちゃんいるの?」
「実はそうなの」
ふり返った瑞葉さんがふへへとやわらかく笑う。
いいな、赤ちゃん。瑞葉ちゃんの赤ちゃんだから、きっといい匂いがするはずだ。
「へー赤ちゃんか。赤ちゃんってどうやってできるんだっけ? なんか学校でやった気がするけど」
何気なくそう言うと、一瞬、リビングが静まり返る。大人たちがみんな止まった気がしたが、最初に動き出したのは七瀬のお兄さんだ。
「人間の生殖は」
瑞葉ちゃんがぎょっとしながら、七瀬のお兄さんの口を塞ぐ。
「ちょっと、何を言い出す気ですか」
「解説をしようかと」
「やめてください! そういうのはご家庭の方針があるんです!」
「正しい知識がある方がいいと思いますが」
瑞葉ちゃんが七瀬のお兄さんを引っ張って、螺旋階段を上って行った。二人の様子を見て、私は胃がきゅっとした。たぶん、聞いてはいけないことだったのだろうと伝わった。
心くんがお茶を淹れてくれて、テーブルに移動する。
番茶と葡萄大福をもぐもぐ食べながら謝ろうと思って口を開く。
「さっきの赤ちゃんの話って、聞いちゃいけなかったんだよね?」
心くんは一度大きく目を見開いてから、またやさしい笑顔になる。
「いえ、命の誕生の話は、凪さんが愛されて生まれてきた、という話と同じです。決して話してはいけない話題ではありません」
心くんがしっかり強く違うよと言ってくれて、力が抜けた。
「命の誕生は大事なことだから、誕生日は盛大に祝うでしょう?」
「そっか、そうだよね!」
悪いことをしたかもしれないと思っていたので、ほっとする。
さっき航ちゃんが「凪の名前の由来」を教えてくれたばかりだ。
だから、命の話、大好きだよの話。
心くんの言うことは、すぐ理解できた。
「では、凪さんのお話を聞かせてください」
大福をごっくんした私は、やっと「人生で一番びっくりしたこと」を話し始める。一番びっくりしたのはもちろんお母さんのことだけど、悲しい話はしたくない。
それに、晴真くんが言ってたココロの謎ってのを、私は解きたい。
だから私はこの話をする。
「実はね、航ちゃんが林間学校に行っちゃダメって言うの。私、ありえない! って最初は叫んじゃった」
一緒にあったかい番茶を飲んでいた心くんが、小さく首を傾げる。
「航平さんがそう言うのは、理由があるんですよね?」
私は頷く。航ちゃんから耳が詰まりそうなほど何度も聞いた理由がある。
「林間学校の行き先がね、山中の少年自然の家なの。でもその施設には、二年前に熊の目撃情報があるんだって」
「熊ですか……」
心くんの表情が渋柿を食べたときみたいになる。
「授業でもやったんだけどね。今って、熊が人を襲うニュースがいっぱいあるでしょ? だから航ちゃんは、もしそこで私が熊にあったらイヤだ! って思って、行かせられないんだって」
ハァと深くため息をつく。心くんの視線が私に刺さっているので、私の話を真剣に聞いてくれているとわかる。
「航ちゃんね、『行かせられないよ、ごめん』って言いながら、何回も泣くんだよ……あんなにでっかい体をしてるのに。そんなことで泣いちゃうなんて、私びっくりして。でも腹立つから、泣き虫って言っちゃった」
「容赦ないですね……」
心くんは航ちゃんのことを可哀想と思ったようだ。けれど、私は林間学校に行けないなんて悲しくて、泣きそうになるのが悔しくて、怒った。
「それに航ちゃんは担任の先生に電話して、行き先を変えてなんて言って。保護者懇談会でみんなが聞いてるときにも、同じことを言ったみたい」
心くんの唇が、への字になる。
「だから、友だちからモンペとか言われて恥ずかしかった……それに、航ちゃんがバカにされてすごく嫌だった」
心くんが私から視線を外した。視線を追って振り返ると、螺旋階段を下りたところで航ちゃんが立っていた。
「立ち聞きしちゃダメだよ」
むっとして言うと、航ちゃんがぺこりと頭を下げる。
「ごめん、なっちゃん」
「航平さんも、どうぞ座ってください」
航ちゃんが私の隣に座る。心くんが航ちゃんの分のお茶と大福を持ってきてくれて、また私たちの前に座り直す。
航ちゃんは恥ずかしそうに肩をすくめながら心くんに言った。
「お恥ずかしいことを聞かせてしまいました」
お恥ずかしい思いをしたのは、私だと言ってしまいたくなる。
誕生日旅行に来てからずっと楽しかったはずなのに。
航ちゃんが大好きなはずなのに。
今は航ちゃんへのいらっとしたものを、抑えきれなくなっている。私はたぶん誰かにこうやって話したかった。心くんがじっくり聞いてくれて、我慢して押し込めていた心の蓋が取れてしまったのかもしれない。
航ちゃんがお茶を一口飲んでから話す。
「なっちゃんのお母さん、俺の妹は、交通事故で亡くなりました」
「それは……ご愁傷様です」
何度も聞いた大人の挨拶を、心くんがきちんとしてくれる。
航ちゃんも小さく礼をして受け取ってから、まだ続ける。
「心配事は九割が起こらないなんて言葉もありますが、僕の場合は起こりました。最悪な形で」
心くんが息を飲んだのがわかる。
「もし今度、なっちゃんに何かあったらと思うと、もう……何も手につきません」
航ちゃんが熱いお茶の入った湯呑を、ぎゅうと両手で握る。そんなに握り締めたら熱いはずなのに、航ちゃんは止めない。
「学校に迷惑なことを言っているとは、わかっています。ですが、最近は学校の管理自体がずさんで起きた悲劇のニュースもありますし」
航ちゃんは苦しい気持ちを吐き出すように語る。
もしかしてだけど、航ちゃんもこうやって誰かに話を聞いて欲しかったのではないだろうか。
私と航ちゃん、二人きりの家ではぐるぐる回ってしまって解決できない、この話を。
「もうなっちゃんを守れるのは自分しかいないと、いつも思っていて……」
航ちゃんの体格の良さに不釣り合いな細い声に、私はもううんざりしてしまっている。
「あーもー! その話は、何回も何回も聞いた!」
もう聞いていられなくて、航ちゃんを置いて一人で階段を駆け上がる。
部屋に入る前に、心くんの声が聞こえた。
「航平さん、お話を聞いて、一つ伺いたいのですが。学校の担任から電話がかかってくることはありますか?」
心くんはどうして、そんなことを聞くのだろう。
そんなの当然、何度もかかってきている。




