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次の日の朝に、瑞葉さんは出かける準備をしてリビングへ下りてきた。ソファで読めないミステリー本を広げている私に、彼女は声をかける。
「七瀬さん、今日は陽菜と約束があるので出かけてきますね」
瑞葉さんは以前、ブラックな職場と副業の両立という、過酷な労働を自分に強いていた。医者を志す妹の陽菜さんの学費捻出のためだ。
彼女たちの両親は亡くなっており、陽菜さんを支えてきたのは瑞葉さんだ。
「陽菜さんの新居には、もうお邪魔したのですか」
「今日、お邪魔する予定です。遠くに瀬戸内海が見えて、景観が良いらしくて」
研修医として働き始めた陽菜さんに会うのは、彼女にとって何より誇らしいことなのだ。アクアマリンを選んで一ヶ月宿泊したのも、瀬戸内市内に引っ越したばかりの陽菜さんとたくさん会いたいからだ。
「もう体調はいいのですか」
そう聞きながら彼女の全身をくまなく観察する。
顔色が良く、コンシーラーも薄い。服も髪も整っていて表情も明るい。よく眠れたようだ。
「はい、なんだかすーっと楽になるときと、ぐぐっとしんどくなるときの波があるんですよね」
瑞葉さんは意識していないだろうが、わかりやすく特徴的なことを言って、へらりと笑う。これで隠しているつもりなのだから、私はたまらない気持ちにさせられる。
彼女が私とティータイムをとらなかった一週間の行動には、察しがついている。
体の異変を陽菜さんに相談、病院へ、混乱して観光や買い物で気を紛らわせ、また陽菜さんと話し込み、帰りが遅くなり、ついに体調不良。
その間にきっと、私ではなく、テトとはたくさん話しただろう。私より、信頼を寄せるテトと。
全部、本当はわかっている。
「帰りが遅くなるなら」
「タクシー代は七瀬さん持ちなので遠慮せず使う! ですね」
「そうです」
「私はその約束を守っているので、七瀬さんも定食屋できちんとご飯を食べてくださいね」
住まいの近くに店を一つ決めて「一日一度は必ず、大福ではないご飯を食べること」と瑞葉さんと約束している。店を決めてある理由は、どこで食べようか考えているうちにめんどくさがった私に、食事を放棄させないためだ。
「……はい、たぶん、きっと」
「お返事が曖昧すぎです!」
瑞葉さんが軽やかに笑って、タクシーで出かけて行くのを見送った。彼女の態度から私への嫌悪感はない。
けれど、好意があるかどうかと、将来を共に在れるかどうかは、女性にとって別だという話がある。
理屈はわかる。家族になるなら、共感性が高く、社交性があり、役に立つ男がいい。
「ハァ……」
考えながら、知らずため息が出る。ソファに座って穏やかな青い海を眺めていると、キッチンからぱたぱたよちよちと海斗くんが歩いてきた。
「がたんごとーん、サンライズせと~サンライズせと~」
一人で電車ごっこをしているようだ。サンライズ瀬戸は日本で唯一、現在でも定期的に走っている寝台列車だ。ここへ来る時に乗ってきたのだろうか。
海斗くんたち家族は三日間の滞在だと聞いている。
海斗くんが怯えないように、私は彼から目を逸らして見ないようにする。
「とうちゃくー!」
すると、怖いもの知らずなのか、好奇心なのか、彼はよいしょと私の隣に座って、私の真似をして海を眺めた。
「うーん、イイうみですねぇ~青いですね~うーん、じつに良い~」
お父さんがそういう話し方をするのだろうか。
芝居がかった言い方は、おそらく誰かの真似なのだろう。泣かれても困るので無視する。
ちらりと彼からの視線が刺さる。
「どうして、かわいいって言わないの? 海斗、かわいいのに」
可愛いことを言ったはずなのに、なぜ褒めないのかと聞かれているらしい。
この年で己が可愛らしい存在であると知っているとは、生き物の生存戦略として正しい。赤ちゃんが愛らしい姿かたちをしているのは、無条件に周りの大人が守りたくなるようにだ。
彼はその大福のようなほっぺたと、小豆のようにつぶらな瞳で、大人を誘惑して、おいしいものを食べてきたのだろう。なかなか興味深い。
「ねー、どうして?」
答えたら泣かれると予測しつつ、無視していると小豆の目にうるうると涙がたまってきてぎょっとする。無視しても泣かれるのか。慌てて軌道修正する。
「海斗くんは一般的に見て、きちんと可愛いですよ」
「やっぱり? だよねーかわいいよー。だってパパとママは、海斗だいすきって言うもん。海斗はサンライズせとがすきだから、サンライズせとも、海斗がすきだし」
論理の飛躍についていけないが、電車とも両思いだという。
資産家の父と奔放な母は忙しく、私には両親と過ごした記憶がほぼない。なので、彼のように可愛いと四六時中言われて育つ子どもの思考は、どうも縁遠い。
「海斗、かわいーねーて! みんな言う!」
理屈が通じないものは苦手だが、小さな彼には彼の理屈があるらしい。
もっちりと自信ありげに笑う彼は、平和そのもので愛らしかった。
私に子どもを可愛いと思う気持ちがあったのかと、意外に思う。
「おにーさんも、かわいいねーて言うでしょ?」
「誰にですか?」
「だれって、だいすきなこだよ!」
海斗くんは驚いたように大きな声を出した。彼にとっては当たり前すぎて、驚かせてしまう質問だったようだ。
「ぼくはね、りんちゃんと、にこちゃんと、あっちゃん。かわいーねーて言うよ」
彼は気が多いらしいが、素直さは伝わった。小さな彼の理論をもう少し聞いてみたくなる。
「可愛いねと言うと、彼女たちはなんと答えるのですか?」
「ありがとー、だいすきーて」
「罪な男ですね」
海斗くんの処世術がなかなかのものなので、将来どんな大人になるのか想像するのも面白い。彼が一人で機嫌良さそうに、りんちゃんたちと、サンライズ瀬戸のどこが可愛いか語るのを聞いていると、なぜか可笑しかった。
「あー! 勝手にこんなとこに! すみません、ご迷惑かけて! すぐどこかに行くんですよ」
海斗くんのお母さんがやってきて、私に平謝りする。ひとりで散策に出てしまった海斗くんを探していたそうだ。
「おにーさん、ばいばーい」
手を引かれて去っていく彼に、手を上げて応える。
大好きだとそんなに軽やかに言ってしまえる彼が少し、うらやましい。彼のおかげか、普段の思考の多さに隠れていた記憶が顔を出す。
「『可愛い』を一度だけ言ったことが……ありましたね」
そのときのことを思い出してみる。
あれは、瑞葉さんが「どうして私を大福係に選んだのか」と聞いたときだ。私は「大福を作っているところを可愛いと思ったから」と答えた。
瑞葉さんはびっくりして目を丸くし、照れるどころか「それ本気で言いましたか?」と真顔だった。
「あれは面白い顔でしたね」
そういうことを言えたときもあったと思うと、少し軽い気持ちになる。やっと本を読む気になれたので、腰を上げる。そこへキッチンのほうから晴真くんがやってきた。
「あ、七瀬さん、今から部屋に呼びに行こうと思ってたんですよ」
「何か用事ですか?」
「これ、心さんからお手紙です」
「心くんから?」
晴真くんは「行ってらっしゃーい」と朗らかに言って、階段を上っていく。掃除を始めるのだろう。彼から渡されたメモ用紙には、心くんの几帳面な字が書かれている。
『僕は今日、休みです。良ければ気晴らしに、一緒に大福カフェに行きませんか』
時間と場所が添えられたメモ用紙を見て、ふっと笑ってしまう。
この前、私がチェスを雑に切り上げたのを気にしていることが、透けて見える。
窓の外を見ると、今日も穏やかに晴れている。
この宿からは瀬戸内海の波が、絶え間なくきらめいて見える。
この青と心くんに招かれて、私は彼が待つカフェに行ってみることにした。




