第二話
彼女は人々の苦しみをすくいあげ、国を守護する。
この小さな国で暮らす人達は、そんなおとぎ話を信じている。
むかしセリシアが他国に侵略されたとき、ひとりの女が忽然と現れた。
彼女は傷ついた人々を癒し、不思議な力でこの国を護り、戦争を勝利に導いたという伝説。
城の前にはその聖女の銅像まであるくらいだ。
「あれ、もしかして足りなかった?」
華奢な後ろ姿がベストのボタンをしめている。
書類が積まれたテーブルから銀の丸眼鏡を探しだし、小さな顔にかけながら振り返る。
わたしはまだ黒いシャツを一枚着ただけの格好で、素足のままソファーで足を組んだ。
アーチ状の窓には夜が張りついている。
私が質問に答えなかったから。
ピンクにもベージュにも見える柔らかい髪が、ゆったりと革靴の踵を鳴らして近づいてきた。
目の前で少し腰を折ると、人差し指が前髪の隙間から軽く額を突く。
「なにか心配ごと?」
ニコが首を傾げた。
優しげなグレーの瞳をじっと見つめる。
どちらかといえば中性的な顔立ちは、たまに腹がたつほど整っている。
ほとんどの女はニコを前にすると子猫みたいな声でお喋りをするし、身分や年齢を問わず、どんな女もプリンセスにしてしまう。
長く一緒にいると、そういう場面を嫌でもよく見てきた。
「ねぇ、私のことどう思う?」
「え?」
眼鏡の奥が丸くなる。
それから一瞬横に逸れた視線が戻ってきて、「魅力的で、かわいくて、黒髪がクールで、働き者で、」まるで歌うように言葉を紡ぎながら隣に腰を落とす。
動きを追いかけていた私の両頬を包む。そして一言。
「共犯者」
愛を囁くみたいな音がこぼれ、数秒隠れ家はしんと静まり返った。
ただの愛でも恋でもない。だからといって、友情でもない。
唇に感じる熱は、とても複雑だ。
私はグレーの瞳に映る自分を見つめた。
一重で切れ長の目がこっちを睨んでいる。丸い顔に小さな鼻。ぽってりした唇。
両親の顔は知らないけど、そう悪くないと思う。
確かにニコの言うとおりだ。
──────共犯者。
私達は子どものころからずっと、十九歳になる今でも一緒に仕事をしている。
クライアントとの接触や交渉、情報集めはニコが。私はただ言われたとおりにターゲットを仕留めるだけ。
それからもうひとつ、私達には秘密がある。
このセリシアで暮らす十六歳から二十歳までの女性は全員、王子以外の男性と関係を持つことは法律で禁止されている。
セリシアでは王子が将来のプリンセスを公募で募るのが慣例だ。
家柄は関係ない。十六歳から二十歳までの女性なら全員プリンセスにる資格があって、王子が二十歳になる歳に開催される舞踏会で見初められればプリンセスになれる。
だからその対象になる女性は全員王子のものになるため、他の男性と関係をもてば厳しい処罰がまっているというわけだ。
ルシル王子は今年で二十歳になる。
巷ではその話と聖女の噂ばかり。
「やっぱり聖女ってガラじゃないわね」
「聖女? あの噂がどうかしたの」
「べつに大した話じゃないんだけど、私のことを聖女だとかなんとか言ってた人がいてね」
「リリィーを? 」ニコの目がまた丸くなる。「それじゃあ噂の聖女って、君のことなの?」
驚いているというよりは面白がっている口ぶりだ。
あらためて誰かの口からそう聞くと、ますます自分ではないような気がしてきた。きっとべつの誰かのことだ。
ニコがふっと息だけで笑った。
「顔が真っ赤。君って意外と人の話を気にするよね」
「うるさい。ただの勘違いよ。もう帰る」
確かに熱をもった顔を背ける。笑い声は少し大きくなって、「ちょっと待って」ソファーから立ちあがる。
私を怒らせたと思ったんだろう。
きっとニコは機嫌をとろうと秘蔵のチョコレートを差しだしてくるはずだ。
踵が床を踏み、その音が戻ってくる。
「はい、これ」
とびきり優しい音が鼓膜をなでる。
しかたない。許してあげよう。これがニコじゃなければただではすませない。
顔を真正面へ向ける。
目に飛び込んできたのはチョコレートじゃなかった。
一枚の紙。それに視線を落とす。
紙には護衛に囲まれた貴族の男の写真と一緒に、名前や年齢。一日の行動や屋敷の間取り図が丁寧な文字で埋めつくされている。
顔をあげる。
「仕事だよ」
たった一言。その短い言葉は、チョコレートよりも甘い響きをもって、私の心を震わせた。




