第七話 ターニングポイント
魔法陣の青白い光に意識が呑み込まれた俺が気が付くと、とんでもない存在感を放つ二つの大きな双丘の中に抱きしめられ顔を埋れさせられていた。
訳が分からず目を白黒させていると、気が付いたのね、という鈴を転がすような透き通った綺麗な女性の声が頭上から聞こえた。
頭を動かして上を見ようとしたが上手く動かせず、俺は仕方なく目線だけ上に向ける。
すると、思わず息を呑むような、あまりにも綺麗すぎる女性の顔が俺の目に映った。
艶やかな長いストレートの黒髪に、形の恐ろしく整った柳眉。
こちらを愛おしそうに見つめる目は切れ長ながら二重で大きく、髪の色と同じ綺麗な黒曜石のような瞳は、まるで吸い込まれてしまいそうなほど美しかった。
顔の全てのパーツは、彼女の小さな顔に神が直接手を施した彫刻の様に完璧な配置で収まっている。
彼女はその白い頬を薄っすらと桜色に染め、恍惚の表情で俺を愛おし気に見つめていた。
スッと通った形の良い高く小さな鼻と小さな口からは、溜め息の様な感嘆が込められた息が漏れていた。
そんな鮮烈な美貌を備えたその女性こそ、俺の幼馴染の中に度々現れていた人格――『リリス』の、本当の姿だった。
その後、ずっと俺を抱きしめていようとする彼女に懇願して何とか解放してもらった俺は、今いる場所のことや、俺の首に付けられた首輪から部屋の壁まで伸びている鎖の説明をしてもらった。
俺が今いる場所は、彼女の住む世界――俺からすれば異世界である『ルルシェーラ』に存在する一番大きな大陸の最東端に位置する広大な森の東の方に、彼女が俺の世界で得た知識と魔法を組み合わせて建てた、彼女の家ということだ。
ただの家ではなくて私とハルの二人の愛の巣よ、という彼女の言葉は無視して、次に俺に付けられた首輪と鎖について聞くと、彼女はさも当然かのようにこう答えた。
「だって、こっちに連れて来るとき、貴方混乱して逃げ出そうとしたもの。それに、これからは私があなたの世話は全部するのだから、別に自由は必要ないでしょう?」
下手に貴方が外を出歩いて怪我でもしたら耐えられないもの、と更に続けるリリスに、俺は頭痛のする頭を抱えた。
流石に首輪を付けられた状態のままというのは息が詰まる。
有無を言わせず連れて来られたことなど色々と文句やら何やら言いたいことはあるが、まずは首輪と鎖を外してもらわないことには始まらなさそうだ。
幸いにして、今のリリスはこれでもかというほど多幸感に満ちたうっとりとした表情をしているものの、目にはちゃんと理性の色を取り戻している。
これならば、ちゃんとした『お話し』も出来そうだ。
というわけで、熱烈な抱擁から解放してくれるよう彼女に懇願したときよりも倍以上にも思えるほど長く熱心な説得と懇願をすることにはなったが、何とか首輪を外してもらうことに成功。
その後再び抱き着いて来ようとするリリスを躱し、一頻り文句という名の説教をリリスにかました。
蛇足ではあるが、そのとき俺に怒られて涙目でしゅんとしていた彼女は容姿とのギャップもあってとても可愛らしく、大分怒気が削がれてしまったことを記しておこう。
まぁ、流れで異世界拉致……召喚の魔法は、向こうからこちらへの片道切符だというのを聞いた時は、思わずリリスですらもヒッ!と引きつった悲鳴が漏れるほど鬼の形相をしていたようだが、それはともかく――。
そんなこんなで無理矢理連れて来られて、尚且つ元の世界には帰れないという状況でスタートした異世界での生活ではあったが、地球にいる時に色々とこの世界の話を聞いていたこともあって、慣れるのにもそんなに時間は掛からなかった。
元の世界の便利で快適な電化製品やらインフラやらを魔法を駆使して再現したという家は、下手をすると元の世界での生活よりも快適だったのも大きかっただろう。
元の生活レベルと比べてもほとんど変わらず非常に快適で違和感や不便を感じることも無く、強いて言えば、ここまで現代の文明レベルを魔法で再現できていることに対して驚くぐらいであった。
ただ、やはりリリスの使うザ・魔法!という感じの魔法を色々と見ているときは、話で聞いていたとはいえ驚きとワクワクが止まらなかった。
百聞は一見に如かずとは言うが、憧れていた魔法を生で見るというのはとても興奮した。
そして更に、そんな魔法を自分も使えるということが分かった時は、思わず狂喜乱舞してしまった。
しかも魔法を教えてくれるリリスによれば、俺は中々筋が良いらしい。
……初めて教えてもらった魔法を自分で使った日の夜、ベッドの上を喜びで飛び跳ね回っていた俺をリリスが微笑ましいものを見るような目で扉の隙間から見ていたことに気が付いた時には、思わず使えるようになった魔法で自分の頭を吹っ飛ばそうか迷ってしまったが。
直後、恥ずかしさで見悶える俺を見て堪え切れなくなったように鼻息を荒くして襲い掛かってきたリリスのことは、しっかりと覚えたての魔法で文字通りの意味で吹き飛ばしておいた。
そんなこんなで色々ありつつも、異世界の神秘に触れながらのリリスとの二人暮らしはとても充実していたのだった。
元の世界の文明レベルとほとんど同じレベルで日常生活も送れているおまけに、彼女と暮らしていく中で何か欲しい物やしたいことがあるときは彼女に頼めば基本的に何でも叶えてくれていた。
俺にあからさまな好意……というか最早偏愛の情を見せる彼女は、事あるごとに俺に対して劣情に塗れた情動を見せてくることもある。
俺自身リリスのことは好きなのと、リリス自身がまさしく絶世とか傾国とかいう形容がピッタリなスタイル抜群のとんでもない超絶美女なので誘惑に負けそうになるが、ゆっくりと関係を育みたかった俺は貞操だけは何とか死守している。
そうして、諭す俺の言葉をリリスも素直に聞いてくれて我慢してくれていた。
……初めて自分で魔法を使えるようになった夜の様に、たまに本能に負けたのか襲われかけることもあるが、今のところは何とか躱すことができているので良しとしておく。
まあ、そんなわけで、貞操の危機はほぼ常に感じてはいるものの順調と言えるだろう。
だが、そんな彼女が、どんなに真剣に頼んでもどうしても許してくれないことが一つだけあった。
それは家の外に出ることだ。
正確に言えば、家の庭の敷地の外――森の中や更にその先の異世界の街に行くことを、リリスはどうしても許してくれない。
彼女が言うには外には危険がいっぱいで怪我をしてしまうかもしれないということだが、冒険に怪我は付き物だろう。
怪我を恐れていては冒険をするなんて夢のまた夢だし、それに拙いながらも自分を回復する回復魔法だって使える。
冒険と言っても、俺だって自分の命は惜しい。
命を落とすような大怪我をするかもしれないほど、危険で無謀なことをするつもりはなかった。
少しずつ無難に力を身に付けていって、見つけた仲間と一緒に楽しく冒険がしてみたかったのだ。
何とかリリスに外に行くことを許可してもらおうと説得したが、駄目の一点張りで聞く耳を持ってくれない。
折角異世界に来たのに憧れの冒険が出来ないことに不満を募らせていた俺は、ある日、その不満が爆発してしまい、とある行動を起こした。
家の庭と外の森の間には結界が張られていたが、それは中からも外からもリリスが認めた者しか出入りするとこが出来ない、というものだった。
何度も冒険に行ってみたいと言葉にしていた俺が勝手に外に出ないよう、今はリリス以外の出入りを一切禁ずるというものとなっている。
その結界はリリスが結界魔法陣を書き記した媒体を通じて張られているのだが、その媒体に出入りの権限の情報も記されている。
リリスが俺にも隠していた媒体を、幸いにしてトイレからそう遠くない場所で発見していた俺はある夜、腹痛を訴えるフリをしてトイレに長く籠ることに対しての違和感を無くさせてトイレに行った。
腹痛を訴える俺を酷く心配するリリスに罪悪感を覚えたが何とか感情を押し殺し、トイレへと立て籠もった俺は、その後トイレの窓から慎重に外に出て媒体がある場所まで細心の注意を払って向かった。
そうしてリリスにバレることなく媒体のある場所に辿り着いた俺は、権限の情報を書き換え、俺も自由に出入りできるようにしたのだ。
今にして思えばそんなガバガバの作戦でよくバレなかったなと思うが、結界の魔法については俺に一切教えていなかったリリスは油断していたのだろう。
リリスが開発していた魔術について、彼女が書き記していたらしい資料を暇潰しに読み漁っていた俺は、結界魔法の資料を彼女も忘れていたであろう資料の山の奥底から発見し、彼女にバレないように結界魔法の知識を蓄えていた。
それは見事に功を奏し、その日、油断していた彼女にバレることなく、俺は結界魔法の媒体への権限書き換えを成功させた。
そして、俺はその翌日、初めて外の世界へと飛び出したのだ。
――きっと、人生にターニングポイントがあるとしたら、そこが俺の人生のターニングポイントだったのだろう。
もっと根気良く彼女を説得していればまた違う未来があったのかもしれない。
だが、愚かにも既に行動を起こしてしまった後では、どれだけ悔やんだとしても……どれだけ嘆いたとしても。
――もう、何もかもが遅かった。




