第八話 暗転
翌朝、俺の体調をまだ心配していたリリスは、朝から森に腹痛に効く薬の材料を採取しに出掛けていた。
家に一人になった俺は、差し当たって必要になりそうな衣服や、二、三日分程度の保存食と通貨をリリスの開発した四次元ポケット的な収納用魔道具の袋に急いで仕舞い込んだ。
流石に何も音沙汰無く彼女の前から消えてしまえば彼女に心配を掛けさせてしまうだろう。
暫く冒険の旅に出ることと、勝手に旅に出ることへの謝罪、落ち着いたら顔を見せにちゃんと戻るという旨を昨日のうちに|認<<したた>>めておいた手紙を置いてから家を出た俺は、リリスに教えてもらった魔術の知識を総動員して俺が出せる最高速で森を駆け抜けた。
外の森は、紫色の如何にも怪しげな霧によって覆われている。
この霧は自然のモノではなく、結界魔術と呪術系魔術を応用して合わせたものらしい。
その効果は、吸い込んだ者は三日三晩苦しんだ後、全身の穴という穴から血を流して死んでしまう、という世にも恐ろしすぎるモノだった。
リリスの話によれば、それはこの森に住み始めた彼女を捕まえようと追ってきたこの世界の人たちが、彼女が捕まらず怒った腹いせに施していった術だという。
間違っても腹いせという可愛らしいレベルの術ではないが、彼女からしてみればその程度のものだったのだろう。
話を聞いた時は背筋がゾッとしたものだが、すぐに彼女の手によって無毒化されていて、今はもう安全だと聞いて安心したのを覚えている。
ちなみに、何故紫色の毒々しい霧をそのままにしているかとリリスに聞けば、人避けになるから、と間髪入れずに答えた。
人嫌いの彼女らしいといえば彼女らしい理由だった。
そんな森の中を、リリスの強力な気配遮断の術式が施されたローブを身に纏い、この森に蔓延る強力な魔物の気配を、かなり様になってきていた気配察知の魔術で感知して躱しながら、自分の力で出せる最高速で突き進む。
深い森の中をただひたすら駆け抜けて長い時間が経過した頃、周囲の紫色の霧も大分薄くなり、やっと森の終わりが見えてきた。
朝のかなり早い時間から出て昼も食べず強行軍で突き進んだのに、既にもう日は傾き始めている。
広いとは聞いていたが、自分の足で駆け抜けてみて、改めてこの森の広大さを実感した。
木々の隙間からチラチラと背の低い草の生えた広い草原とその遠く向こうに街の外壁のようなものが見えると、俺はついにこれから夢の冒険が出来ることに心が躍る。
これから、この先に待つ未だ見ぬ世界を、自由に歩き回る。
冒険を通して出会った仲間たちと笑い合い、ときに衝突し、ときに泣いて、お互いに切磋琢磨しながら成長していく。
そんな夢にまで見た世界が、この先にはある。
――俺は、自由に、この世界を冒険するんだ。
気分が最高潮に達した俺は、そのまま勢い良く森を抜けた。
途端に、木々によって遮られていた光が弾ける。
少し茜が混じり始めた日差しの眩しさから逃れるように顔の前に翳した手を下ろし、目の前に広がるであろう草原を見ようと一瞬閉じた瞼を開けた。
そして、目の前には――。
黒曜石の様な美しい瞳で、俺をじっと見るリリスの姿があった。
「……っ!?」
突然のことに対応できなかった俺は、魔術でブーストした最高速度のままリリスの身体に突っ込む。
そんな俺をあろうことか、彼女はまるで何ともないように平然と受け止めた。
この世界へ連れ込まれたときと同じように、胸の中に抱き寄せられるような形で受け止めた彼女と共に、ローラースケートを履いて滑るかの如く、土煙を上げながら地面の上を数メートルほど滑るように進んでから体が止まる。
それから、暫しの間、静寂がその場を支配した。
物凄い速度で突っ込んできた俺を受け止めた彼女が何とも無さそうなことに安堵するが、すぐにそれよりも大きい混乱が頭の中を占める。
最高速で突っ切ってきたはずなのに……。
追い付かれるにしても、まだ先のことだと思っていたのに……。
何で、どうして、どうやって?
混乱した俺の頭を過る疑問は、彼女の次の言葉に遮られる。
「何故、逃げたのかしら?」
――背筋が凍り付く。
その声は本当に彼女から発せられたものなのだろうか。
そう思ってしまうほどに、彼女の声音は異質な雰囲気を漂わせていた。
「何故。どうして? ……私は、何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も……言ったはずよ。外の世界は危険だって……。それなのに何で私の言葉を聞かずに、外に出たのかしら?」
全く何の感情も籠っていない、抑揚のない声。
その声に俺は、嵐の前の静けさの様な不気味さを感じた。
「私に何か不満があったのかしら。貴方が外に出ること以外は、貴方の願いは全て叶えていたはずよ。欲しい物は全部貴方にあげた。して欲しいことも全てしてあげたでしょう……? ……それなのに。……何故……何故」
次第に震えていくリリスの声。
彼女の言葉に何か返そうとしても、強い力で胸に押し付けられている顔は一切動かすことが出来ない。
視界も息も、彼女の大きな胸に阻まれる。
「……何故!? どうしてなの!? 貴方が愛おし過ぎて、貴方を毎分毎秒! 何度も何度も何度も劣情のままに貪り尽くしたい衝動に駆られたわ! それでも、ゆっくりと関係を育みたいという貴方の気持ちを尊重して我慢していた! 身が焼き切られそうになる感覚を押し殺して私は必死に耐えていたのよ!?」
ついに感情を爆発させ、泣きじゃくり癇癪を起こす子供の如く絶叫するように言葉を発するリリス。
そんなリリスの周りでは、激情によって周囲に漏れ出した膨大な魔力の奔流が、景色を……空間を軋ませているのを感じる。
「……っは……! ……リ、リリィ……ごめ……!?」
俺の顔を胸に押し付ける力が緩んで何とか顔を上げることが出来た俺は、行き場を失って体の中で暴れていた息を吐くと謝ろうとしたが俺の声は途中で止まってしまう。
交差した彼女の黒曜石の様な瞳は、一切の輝きを失っていた。
その奥では混沌たる深い淵に淀む昏い闇が渦巻いている。
そんな瞳を見て恐怖した俺の身体から出ようとしていた声は、発されることなく虚空に消えて行った。
「嗚呼、やっぱり駄目ね。知識だけで、この世界のことを全く見聞きしたことのない貴方は赤子も同然。そんな貴方をやっぱり自由になんかさせておけないわ。私たちの家に閉じ込めて、縛り付けて私が全部管理しないと……」
一人納得するようにそう呟くリリス。
「さあ、私たち二人だけの愛の箱庭へ帰りましょう?」
彼女は、優し気で穏やかで――それなのに、どこか歪な微笑みを浮かべる。
そこで視界が暗転し、気が付くと俺は、この世界に初めて来たときにいた部屋にいた。
今は俺の自室になっている部屋の大きなベッドの上で、両手足と首に枷を嵌められ、そこから伸びた鎖がベッドの橋に括りつけられた状態で寝かされている。
「それじゃあ、まずは、貴方にお仕置きをしないと、ね? だって、貴方は私の言うことを聞かずに勝手に外に出て行ってしまったのだもの……。お仕置きの内容は……私も貴方の言うことを聞かないってことで良いわね」
俺を見下ろす彼女の頬は艶やかに上気していて、興奮する彼女の口からは荒く息が溢れ出している。
彼女は溢れ出る劣情を隠そうともせず俺に覆い被さると、言った。
「貴方がゆっくりと関係を育みたいって言っていたから、そういうことをするのはずっと我慢していた……。けれど、私の言うことを聞いてくれない貴方の言うことを、私だけ全部聞く必要はないわよね?」
彼女は俺の返事を一切聞くこと無く。
妖艶に微笑み、激しい情動に突き動かされるまま、俺の口をその小さな口で塞いだ――。
次は明日の9時公開予定です。




