第10話:影の村
【登場人物】
レオ / 処刑された元聖白教の異端審問官。黒髪に翠と金の目。黒い外套。ダラクローンと契約し、堕落のダンジョンで人々を解放する。
ノクス / ダラクローンの眷属。銀髪ボブに黒いゴシックドレス。ダンジョンの根幹を担っている。滅ぼされた魔法文明の魔法使いで、祈跡使いの聖白教の堕落を支援する。
アウレリア / 金色髪の聖女。聖白教オルドリア教区(王国の教区)と北の白塔をつなぐ聖務連絡官。普段は敬語を使う凛とした連絡官だが、ダンジョンの力で欲望が解放されてデレデレ?になってしまう。武国に向かう途中で捕まってしまった。現在寂しい中。
エイレン / 元異端審問代行官。赤髪碧眼、ボンデージ風の服に猫耳パーカー。冷酷な動物嫌いの代行官だったが、本当は動物大好き。堕落した後は、『ポニーテール』に猫耳をつけて某動物愛好家ばりのわしゃわしゃもふもふをするようになってしまう。
クラリス / 青髪のハーフアップにカラフルなメッシュ。グレイヴァルド王国の宰相で、自分のアーティスティックな感性を解放させて、国家運営?をしてしまう。武国編では王国再編が忙しく、連絡と補助中心。
【設定】
堕落のダンジョン / 神聖連合国の一国、グレイヴァルド王国の郊外地下に作られたダラクローンのダンジョン。欲望を満たすために、魔力によるダンジョンルームが仮設→生成され、人々を堕落させていく。
真実の観測室の映像魔法が、夜の街道を映し出していた。
砂埃の舞う枯れた道。
長く、長く、長い……そこを一人の男が走っている。
着物の裾が泥に汚れ、髪が崩れ落ちてまるで『落武者』の様。
今朝まで数百人の民に額を擦り付けさせていた人間が、誰に追われるでもなく、ひたすら闇へ向かって逃げている。
「……みっともないですね」
夕霧が観測室の隅で腕を組み、映像をちらりと見やった。
「見苦しい。さっさと転べばいいのだ」
エイレンが吐き捨てた。
「……逃げる者。……自滅」
リュシエルが淡々と言い、それきり目を閉じた。
「旦那様、対象はデジマの外へ向かっております。しかし……このまま進んでも神座には辿り着けません。帳簿の写しはすでに各方面へ届いておりますので」
ノクスが書板から顔を上げ、静かに補足する。
「彼が逃げ込める場所は、もうどこにもない」
私は必死の形相を見つめた。
こちらが手を回したから……だけでなく、領主自身がそういう構造を作り上げてきたからだ。
「では、念のため仕上げをしてもらおう」
私は夕霧に視線を向けた。
「頼めるか」
「任せてくださーい」
返事は短く、無駄がなかった。
◇
夜の街道は冷えていた。
月のない空の下……両側の枯れ草だけが風に揺れている。
男は振り返らず走り続けていた。
帳簿が撒かれた以上、武国の中心には戻れない。
……良くて処刑。
ならば遠くへ。
どこかへ逃げて、ほとぼりが冷めるまで隠れればいい。
「そんなことを考えてるのかなー」
ふと、首筋に寒気が走る。
立ち止まる前に、体が勝手に振り返っていた。
廃屋の屋根に、影。
黒紫の忍び装束。
逆光の中に輪郭だけが浮かんでいる。
武器は構えていない。
ただ、真っ直ぐにこちらを見下ろしているだけだ。
「ひっ……!」
男の足がもつれた。
夕霧は何も言わなかった。
声一つ出さず、動きもしない。
その目だけが、ひどく雄弁だった。
デジマはもう、あなたのものではない。
二度と踏むな。
「ひいぃっ!」
男は悲鳴を上げ、闇の向こうへ消えていく。
夕霧はそれを最後まで見届け、音もなく屋根から姿を消した。
◇
変わってディスプレアが映すのは……領主屋敷の広間。
腐敗した側近たちはすでに隅へ押し込まれ、代わりに庭師や下働きをしていた忍び……乱波たちが、本来の主を出迎えている。
棟梁が広間へ入ってきた。
年老いてはいるが、目の奥の光だけは別物だ。
彼は上座の椅子を見たが、そこには座らず、床の上にどかりとあぐらをかいた。
「よいか」
棟梁が配下を見回す。
「公には、領主様は急な病で療養に入られたとする。政務は代行の執政官が行う……つまり、儂じゃ。中央からの監察は、情報の操作でやり過ごせ」
「承知いたしました」
「今日からここは、再び乱波の館に戻る」
棟梁が短く言い切ったところで、私が廊下の影から入った。
「見事な手際だ。早い」
「あんたのおかげじゃ、異国の商人殿」
棟梁が口の端を僅かに持ち上げる。
「……いや。ダンジョンマスターと呼んだほうが、正確かもしれんな」
「どちらでも構わない。よく気づいたな」
「儂らの武器は情報じゃ。夕霧だけでなく、他のものからも聞いておる……グレイヴァルド王国の件はな」
コホン、とひとつ咳払いをして棟梁は続けた。
「一つ、頼みがある」
居住まいを正し、両手を床についた老爺。
深く、ゆっくりと頭を下げる。
「夕霧を、連れて行ってくれ。あの子の翼は、もうこの狭いデジマには収まりきらん」
「頭を上げてくれ。もちろんだ」
短く答える。
しかし、棟梁はしばらく頭を上げなかった。
「孫を……頼む」
それだけが、老人の声だった。
私もそれ以上は聞かなかった。
◇
夜明け前から、忍びたちが動いていた。
私は観測室のディスプレアの前に立ち、デジマの朝を映し出す映像を眺めていた。
漆黒の装束が屋根の上を走り、各家の軒先に小さな俵を置いていく。
中身は白米だ。
領主が帳簿の裏で溜め込んでいた、あの白米。
「盗ったものを、本来の持ち主に返す。気持ちがいいですよー」
夕霧が映像を眺めながら言った。
「当然の帰結だ」
エイレンが腕を組む。
「民から奪ったものは、民に戻る。それだけの話だ」
「……白い煙。……いっぱい……良いね」
リュシエルが映像の隅を静かに指した。
日が昇り始めると、街のあちこちから細い白煙が立ち上り始めた。
一本が十本になり、十本が百本になっていく。
「かまどに火が入る煙だ。これこそあるべき姿だ」
甘く柔らかい匂いが、魔法映像越しでも感じ取れるような気がした。
「旦那様。炊飯の湯気……美しいですね」
ノクスが静かに言う。
戸を開けた母親が俵を見つけ、子供が駆け寄り、茶碗が出される。
強制された笑顔ではない。
誰かに命じられたわけでも、怯えながら作った顔でもない。
噛み締めるような、本物の幸福の顔がそこにあった。
「……いい匂いだ」
私は映像から目を離した。支配の空気は消えた。
それだけで十分だ。
◇
「旦那様。船の準備が整っております」
ノクスが扉を開けた。
私はエイレンとリュシエルに向き直った。
「お前たちは先にダンジョンへ戻っていろ。少し手狭になる」
「了解した」
エイレンが大剣の柄を叩く。
「ただし、主よ。呼んだらすぐに行く」
「……こなたも。いつでも繋がる」
リュシエルが短く言い、軽く頷いた。
その瞳には珍しく、何か言いたそうな色が浮かんでいた。
結局何も言わなかったが。
「旦那様、わたくしは引き続き同行いたします」
「ああ、頼む」
裏の船着き場には、まだ霧が残っていた。
一般の航路ではない。
忍びが手配した小さな船が波に揺れている。
夕霧は旅装束で桟橋に立ち、霧の向こうへ目を向けていた。
その立ち姿に、どこかを惜しむような色は見当たらない。
「……行きますか」
「未練はないか」
「ありません」
夕霧が振り返る。
「故郷は取り戻しました。次は——ご主人の大切な人を取り戻す番です」
「わかっている」
夕霧はそこで少し間を置き、ふっと肩の力を抜いた。
「はー、やっとあたしも素が出せるなー。デジマにいる間、どこかずっと気を張ってたんですよー」
「やはり、表の顔だったか」
「ご主人はわかってたんですかー」
「なんとなくな」
「うわー、ひどいですよそれー」
口を尖らせたが、その目は笑っていた。
「なんでダンジョンに戻るだけなのに、小舟で出るんですかー?」
「雰囲気だ」
「旦那様も風情がありますね。やはり、門出は霧の中、船で行くものです。クロサワです」
「クロサワ?」と私。
「おっと……なんでもありません」
「ねー、ご主人ー」
夕霧が笑う。
棟梁の前で見せた静かな顔とも、舞台の上の据わった顔とも違う、本当の顔だ。
「あたしの踊りと忍びの技、全部あなたに捧げますよー。……ご主人ー!」
「ああ」
私は言った。
「頼りにしているぞ」
夕霧が照れたのか、さっさと船に乗り込んで背中を向ける。
◇
船が霧の中へ滑り出す。
振り返ると、デジマの街からいくつもの白い煙が立ち昇っていた。
朝の光を受けて、それは静かに美しい。
支配の白ではない。
人が飯を食い、暖を取り、ただ生きている証の白だ。
「旦那様、大船に戻りましょう。次の目標地点まで順調に進めば二日ほどかと」
ノクスが書板を開く。
「それと……アウレリア様からは昨夜、短い通信が一件ございました」
「内容は」
「『遅いよぉー!! まだぁー!!!』とのことでした」
「……相変わらずだな」
「早く行かないと、もっとすねちゃいますよー」
夕霧が船縁に肘をつきながら言う。
「すねたアウレリアさんって、どんな感じなんですかー」
「想像したくない」
霧が深くなり、デジマの湯気が遠のいていく。前から風が吹いてくる。アウレリアが囚われている国の匂いが、まだ遠い。
しかし確実に、近づいている。




