第34話:破戒の慟哭と解放
【登場人物】
レオ / 処刑された元聖白教の異端審問官。黒髪に翠と金の目。黒い外套。ダラクローンと契約し、堕落のダンジョンで人々を解放する。
ノクス / ダラクローンの眷属。銀髪ボブに黒いゴシックドレス。ダンジョンの根幹を担っている。滅ぼされた魔法文明の魔法使いで、祈跡使いの聖白教の堕落を支援する。
アウレリア / 金色髪の聖女。聖白教オルドリア教区(王国の教区)と北の白塔をつなぐ聖務連絡官。普段は敬語を使う凛とした連絡官だが、ダンジョンの力で欲望が解放されてデレデレ?になってしまう。
エイレン / 元異端審問代行官。赤髪碧眼、ボンデージ風の服に猫耳パーカー。冷酷な動物嫌いの代行官だったが、本当は動物大好き。堕落した後は、『ポニーテール』に猫耳をつけて某動物愛好家ばりのわしゃわしゃもふもふをするようになってしまう。
【設定】
堕落のダンジョン / 神聖連合国の一国、グレイヴァルド王国の郊外地下に作られたダラクローンのダンジョン。欲望を満たすために、魔力によるダンジョンルームが仮設→生成され、人々を堕落させていく。
契約は結ばれた。
私はアトリエの扉を閉め、メインルームへと戻った。
玉座に座るとエイレンが笑った。
「……随分とあおったな、主」
黒いクマ耳パーカーのエイレン。
ボンテージスカートから白い足がのぞいている。
彼女の膝の上では、黒猫(ミウと名付けたらしい)がのんびりとあくびをしていた。
「あの目は、もう限界だな。己が猫を抱き上げた時と同じ目をしている。『我慢』という名の堤防が、水圧に耐えきれず悲鳴を上げている顔だ」
「そうだねぇ。宰相様のような真面目な方ほど、一度タガが外れれば……その反動は濁流のようになっちゃうよー?」
アウレリアが新しい紅茶を淹れ、甘い香りを漂わせながら水鏡を覗きこむ。
そこへ、カップに口をつけたノクス・ネラが、淡々と、しかしどこかたのしげに口を開いた。
「——魂の律動、危険域です、旦那様」
彼女は無表情のまま。
しかしその銀色の瞳の奥に、嗜虐的ともとれる奇妙な愉悦の色を宿していた。
「彼女の精神に入ったヒビが、今にも砕け散ろうとしています。……実にいい音です。長年縛り付けられた『恩義』という鎖が、千切れ飛ぶ音がします」
「趣味が悪いな、ノクス」
「お褒めにあずかり光栄です。旦那様の『悪趣味』を管理し、記録するのが、わたくしの務めですので」
ノクスが慇懃に一礼した、その瞬間だった。
クラリスが震える両手で筆を握りしめた。
そして。
「あ……ああああっ!!」
獣のような咆哮。
彼女は叫びと共に、インクをたっぷり吸わせた筆を、純白の壁に叩きつけた。
バシッ!
乾いた破裂音が響き、鮮烈な『青』が飛び散る。
だが、それが合図だった。
一度インクが壁につくと、彼女の中で何かが完全に弾け飛んだ。
「はっ、あはははははっ!!」
彼女は狂ったように笑いながら、筆を振り回した。
一本では足りない。
「楽しそうだねぇ!」
アウレリアが声を出す。
まったくだ。
クラリスは他の絵の具チューブをワシ掴みにすると、キャップも外さずに握りつぶし、中身を壁にぶちまけた。
塗料は簡単には手に入らない。
これはノクスによってダンジョンが生成した特別アイテムだ。
赤、黄、緑。
原色が混ざり合い、混沌が生まれる。
さらには、掌に直接インクを塗りたくり、素手で壁を殴るように色を重ねていく。
それは絵画というより、壁への殴打だった。
聖白教への、運命への、そして自分自身への、暴力的なまでの自己主張。
「美しいな」
私は紅茶を啜りながら、その光景に見惚れていた。
聖白教の連中が見れば『狂気』と呼ばれるだろう。
だが、私には新しい命の『産声』に感じる。
「……おや。随分と派手に散らかされましたね」
◇
数分後。
クラリスの嬌声が止んだのを見計らい、私たちはアトリエに入った。
「……」
凄惨な、しかし圧倒的な光景だった。
部屋は絵の具の海と化していた。
壁一面に、意味不明だが力強い色彩の嵐が吹き荒れている。
その中心で、クラリスは大の字になって床に倒れこんでいた。
顔も、青い髪も、宰相の制服も、七色にぐちゃぐちゃに汚れている。
だが、その表情は——憑き物が落ちたように、晴れやかだった。
「……見ろ、この有様を」
エイレンがニヤリと笑い、わざと汚れた床を避けて歩み寄った。
「聖白教の『潔癖』への当てつけか? 最高にロックだな、画伯」
「ふふ。素敵な『お化粧』だねぇ〜」
アウレリアがしゃがみこみ、ハンカチでクラリスの頬についたインクを優しく拭う。
「今までで一番、生き生きしてるよねぇ? クラリスちゃん」
「……あぁ」
クラリスは天井を見上げたまま、うっとりとした声で呟いた。
「気持ちよかった……。私、生きてる……」
彼女の指先から、ポタリと青い雫が落ちる。
その一滴が、彼女の再生の証だった。
その時。
ズゥゥゥゥン!
地鳴りのような音が響いた。
「旦那様。もう少し時間が経てば新しいダンジョンルームが拡張できるようです。かつての魔法使いたちが遺した『禁断の書庫』と『魔具工房』です」
「素晴らしい。知識と創造か」
私は倒れている彼女に手を差し伸べた。
「立てるか、クラリス。……満足したか?」
彼女は私の顔を見つめ、そしてゆっくりとその手を取った。
立ち上がった彼女の瞳。
そこには、以前のような『苦悩』や『迷い』はない。
代わりに宿っていたのは——ゾクリとするような、『狂気じみた知性の光』だった。
「いいえ、まだまだ♡」
クラリスは、汚れた顔で艶然と微笑んだ。
「……これからよ。この壁の絵は、ただのラフスケッチに過ぎないの」
「ラフスケッチ?」
「ええ。この『絵』を、現実の王国に上書きするの」
彼女は壁に描かれた極彩色の嵐を指差した。
「無意味な聖白教のルール、非効率な慣習、退屈な色彩……私がすべて『修正』して差し上げるわ」
国家の宰相が『創造者』へと覚醒した瞬間。
彼女は私の手を強く握り返し、熱っぽい瞳で見上げてくる。
「……手伝って? 私の後援者?」
私はニヤリと笑った。
「ああ。存分に描くといい。……この国を、君のキャンバスにするんだ」
クラリスの瞳が、妖しく輝いた。
彼女の筆先が、この国をどう塗り替えていくのか。
楽しみで仕方がない。




