第33話:異端の誘い
【登場人物】
レオ / 処刑された元聖白教の異端審問官。黒髪に翠と金の目。黒い外套。ダラクローンと契約し、堕落のダンジョンで人々を解放する。
ノクス / ダラクローンの眷属。銀髪ボブに黒いゴシックドレス。ダンジョンの根幹を担っている。滅ぼされた魔法文明の魔法使いで、祈跡使いの聖白教の堕落を支援する。
アウレリア / 金色髪の聖女。聖白教オルドリア教区(王国の教区)と北の白塔をつなぐ聖務連絡官。普段は敬語を使う凛とした連絡官だが、ダンジョンの力で欲望が解放されてデレデレ?になってしまう。
エイレン / 元異端審問代行官。赤髪碧眼、ボンデージ風の服に猫耳パーカー。冷酷な動物嫌いの代行官だったが、本当は動物大好き。堕落した後は、『ポニーテール』に猫耳をつけて某動物愛好家ばりのわしゃわしゃもふもふをするようになってしまう。
【設定】
堕落のダンジョン / 神聖連合国の一国、グレイヴァルド王国の郊外地下に作られたダラクローンのダンジョン。欲望を満たすために、魔力によるダンジョンルームが仮設→生成され、人々を堕落させていく。
私はクラリスとは別の場所に転移した。
ダンジョンのメインルーム。
魔導映像にクラリスの姿が映っている。
彼女が連れてこられたのは真っ白なアトリエ。
ノクスが仕立てた……ダンジョンの一室。
そう。
彼女の根底の決意を一度揺るがせる必要がある。
ここまで連れてきたのは奇襲だった。
だから、最後は自分の心に従うことのできる勇気が必要だ。
「う……」
クラリス・スプリングは、大量の画材に囲まれ悩んでいた。
彼女はまだ少し躊躇していた。
ペンを持ったまま。
「聖白教の教義は彼女に根深く残っている。今彼女はそれと戦っているんだ」
「絵を描くのは禁忌だからねぇ」
しかし、まっすぐ前を見て腕を横に動かした。
そして、クラリスは自分が壁に引いてしまった一本の『黒い線』を、呆然と見つめていた。
ここだ。
彼女が行動に出た……その心の動き。
今しかない。
このタイミングだ。
私はアトリエへと向かう。
そしてクラリスの背後を見つめ
「——いい線だ」
とだけ、呟いた。
静かな、しかし絶対的な響きを持つ声。
クラリスは弾かれたように振り返り、反射的に両手を背中へ隠した。
まるで、イタズラが見つかった子供のように。
「これは……。ち、違います、これは……その、画材の品質調査を……!」
「気にしなくていい、宰相」
私は彼女の言い訳を一刀両断し、ゆっくりと歩み寄った。
壁に近づき、彼女が引いたばかりの、震える黒い線を指先でなぞる。
「迷いがない。今の貴女の心そのものだ。……調査? 馬鹿を言うな。貴女は今、人生で初めて『呼吸』をした顔をしているぞ」
「ッ……」
クラリスが息を呑む。
私は彼女に向き直り、その目を覗きこんだ。
「手が震えているな。なぜだ?」
「……こ、これは……罪悪感です。私は、教えを破って……こんな……」
「違う。それは『武者震い』だ」
私は断言した。
「君の脳は今、この白い壁をすべて自分の色で埋め尽くす快楽を想像し、焼き切れそうになっている。……その恐怖は、失敗への恐怖ではない。理性が崩壊する予感に対する、本能的な震えだ」
図星を突かれたのか、クラリスの瞳が激しく揺れた。
彼女は後ずさり、壁に背中を預ける。
そして、必死に自分を保とうとするように、声を張り上げた。
「……詭弁です! そんな、獣のような欲求ではないわ!」
彼女の目から、涙があふれ出す。それは、彼女を長年縛り付けてきた『鎖』の正体だった。
「私は……私は、聖白教に救われた身よ! 路地裏で凍え死にかけていた私を拾い、パンを与え、育ててくれたのは教会!」
彼女は叫ぶ。
それは、自分自身に言い聞かせるような、悲痛な独白だった。
「孤児院のシスターは言いました。『お前の命は神に捧げられたものだ』と。……読み書きも、計算も、すべて教会が与えてくれた慈悲。その恩を返すのが……私の人生の全てなんです!」
「だから……いいものを描きたいという欲求を殺し、死ぬまで書類の山に埋もれることが、貴女の『恩返し』か?」
「そうです! それが人の道でしょう!? 恩を忘れて、自分だけの楽しみに耽るなんて……そんな『堕落』……」
彼女の叫びが、アトリエに響く。
だが、その『正論』こそが、私が壊すべき敵だ。
「やれやれ」
私はわざとらしく溜息をついた。
「その『恩』の正体を、教えてやろうか」
「……え?」
「聖白教は、毎年数千人の孤児を保護する。慈悲深いことだ。……だが、その中で祈跡術の……『高等教育』を受けられるのは何割だと思っている?」
クラリスが言葉に詰まる。
私は冷徹な事実を突きつける。
「一割以下だ。祈力適性や知能が高い『使える素材』だけが選別され、残りは下働きとして消費される」
「な……」
「貴女が拾われたのは、運が良かったからではない。貴女が極めて『優秀な部品』だったからだ」
私は一歩踏みこみ、彼女の逃げ場をふさぐ。
「奴らは貴女を育てたのではない。『投資』をしたんだ。クラリス・スプリングという、将来有望な家畜にな」
「と……投資……?」
「そうだ。そして今、法外な利子をつけて回収しているに過ぎない。……貴女の『恩返し』とは、借金の返済だ。自分の人生そのものを差し出すような、尊い儀式ではない」
ガアン、と何かが砕ける音が聞こえたようだった。
クラリスの表情から、血の気が失せる。
彼女が縋り付いていた『自己犠牲の正当性』が、粉々に砕け散ったのだ。
「あ……あ……」
彼女はその場に崩れ落ちた。
信じてきた慈愛が、ただのシステムだったと突きつけられ、心が空白になったのだ。
「神に祈るな、クラリス。祈っても腹は膨れないし、絵も描けない」
私は膝をつき、彼女の目の前に——一本の『青い絵の具』と、筆を差し出した。
「この筆を取れ。だが、タダではないぞ」
私は彼女の涙に濡れた瞳を、射抜くように見据えた。
「これは『取引』だ」
「……取引……?」
「そうだ。聖白教の教義、第8節。『汝、絵を描くことなかれ。創造は神のみの御業なり』……そうだな?」
クラリスが、びくりと震える。
幼い頃から骨の髄まで染みこんだ、絶対の戒律。
「この筆を取るということは、その教義を否定するということだ。神への反逆だ。……それでも、描きたいか?」
「ッ……!」
クラリスの手が止まる。
恐怖。
長年の洗脳。
恩義という名の呪い。
それらが彼女の喉を締め上げる。
(……まだだ。あと一押し)
私は彼女の耳元で、悪魔のように囁いた。
「想像してみろ。このまま筆を置き、王城へ戻る未来を。……灰色の執務室。終わらない書類。そして、死ぬまで『他人の色』で塗りつぶされる人生を」
「……いや」
「どっちがいい? たくさんの画材で自分の絵を描くことと他人の人生にぬりつぶされること」
クラリスが顔を上げる。
その瞳の中で、何かが燃え上がった。
それは、孤児院の片隅で、暖炉の炭で床を汚した時に感じた、あの原初の熱。
「……私は」
彼女の唇が震え、そして開く。
「私は……嫌です。もう、誰かのための歯車になるのは」
「ならば何になりたい」
「私は——!」
彼女は私の手から、引ったくるように筆を奪い取った。
そして、張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「私は、描きたい!! 神様の世界なんていらない……私が、私の世界を描き出したい!! 私の未来を色づけるのは私!」
「素晴らしい。堕落のダンジョンへ、ようこそ」
——契約成立。
その瞬間。
ドォン!
とダンジョンの大気が震えた。
彼女の全身から、青白い魔力の光が噴き出す。
「口誓を確認しました。クラリス様」
いつの間にか、背後にはノクスの姿があった。
『クラリス・スプリング。ダンジョンによると……当該個体の精神構造は、『創造者』に変化するようです』
バヂィィッ!
彼女を包んでいた、見えない鎖が弾けとぶ。
私は口角をあげ、立ち上がった。
「創造者か……」
彼女の瞳から、迷いは消え失せている。
そこにいるのは、国の重責を背負う宰相ではない。
たった今、オリを破って生まれたばかりの、一人の『創造者』だ。
「さあ、始めようか画伯。……この白い壁は、すべて君のキャンバスだ」
クラリスは、もう私の言葉など聞こえていないようだった。
彼女は、愛おしそうに筆を握りしめ、ふらりと壁に向かう。
その背中から立ち上る、狂気じみた熱気。
ドアを閉める私の背後で、彼女が大きく息を吸いこむ気配がした。
それは、彼女の魂が上げる、産声の前触れだった。




