第24話:0.2ミリ以上の悪意
【登場人物】
レオ / 処刑された元聖白教の異端審問官。黒髪に翠と金の目。黒い外套。ダラクローンと契約し、堕落のダンジョンで人々を解放する。
ノクス / ダラクローンの眷属。銀髪ボブに黒いゴシックドレス。ダンジョンの根幹を担っている。滅ぼされた魔法文明の魔法使いで、祈跡使いの聖白教の堕落を支援する。
アウレリア / 金色髪の聖女。聖白教オルドリア教区(王国の教区)と北の白塔をつなぐ聖務連絡官。普段は敬語を使う凛とした連絡官だが、ダンジョンの力で欲望が解放されてデレデレ?になってしまう。
エイレン / 元異端審問代行官。赤髪碧眼、ボンデージ風の服に猫耳パーカー。冷酷な動物嫌いの代行官だったが、本当は動物大好き。堕落した後は、『ポニーテール』に猫耳をつけて某動物愛好家ばりのわしゃわしゃもふもふをするようになってしまう。
【設定】
堕落のダンジョン / 神聖連合国の一国、グレイヴァルド王国の郊外地下に作られたダラクローンのダンジョン。欲望を満たすために、魔力によるダンジョンルームが仮設→生成され、人々を堕落させていく。
サラサラサラ……。
砂時計が落ちる音だけが聞こえる。
宰相クラリスは、直立不動のまま待っていた。
すでに、三時間ほどが経過している。
彼女が胸に抱いているのは、王都の孤児院に対する『冬季燃料および食料の緊急支援要請』。
水鏡はその文字さえもクッキリと見せた。
外では雪が強まっている。
『炭売り少女』のような被害者を、これ以上出すわけにはいかない。
私とクラリスの思いはちょうど一緒のようだった。
もっとも、彼女はバルデルの行ったことなど知らないのだが。
「……バルデル卿。まだでしょうか」
クラリスが、控えている衛兵に声をかける。
衛兵は気まずそうに目を逸らした。
「は、はい。子爵閣下は今、『執務室の空気の入れ替え』を行っておりまして……」
言いよどんで、衛兵は続けた。
「先ほど下町に行かれた際、服に付着した『庶民の菌』を完全除去するまで、あと三十分は入室禁止とのことです」
「……そうですか」
クラリスは拳を握りしめた。
バルデルがハンコを押さない限り、どんな緊急予算も王の目には触れない。
ガチャリ。
ようやく、純白の扉が開いた。
中から漂ってきたのは、鼻が痛くなるほどの消毒薬の臭いだった。
「——入りたまえ。ただし、靴の汚れは十分に拭ってからしてくれよ」
◇
部屋の中は、狂気的なまでに『白』かった。
壁も床もカーテンも白一色。
バルデルは机の向こうで、新しい白手袋を嵌め、さらにその上から白いハンカチで鼻と口を覆っていた。
「……ゲホッ。……宰相殿。君が来ると、どうも空気が埃っぽくなるね」
「申し訳ありません。……ですが、この書類は一刻を争います」
クラリスは書類を差し出した。
バルデルはそれを直接受け取らない。
長いピンセットで書類の端をつまみ上げ、まるで汚染物質を扱うかのように、手元の拡大鏡の下へ運んだ。
「……ふむ」
彼はルーペを覗き込み、ジロジロと粗探しを始める。
部屋に響く、暖炉のまきが爆ぜる音。
いや、その暖炉の灰さえも、彼は許せないのかもしれない。
「ここだ」
唐突に、バルデルの声が響いた。
「……はい?」
「三行目。『速やかなる支給を』という文言。……『速やか』の『か』の字のハネが、二ミリほど長い」
バルデルはピンセットで机をコンコンと叩いた。
「品がないよ。まるで飢えた犬が餌をねだるような、浅ましい筆跡だね」
「……ッ! それは、私の筆跡です」
「知っているさ。だから言っているんだよ、孤児院上がりの宰相殿」
バルデルは目を細め、粘着質な視線をクラリスに向けた。
「君の文字には、育ちが出る。ふっ……臭い。臭すぎる。スラムの泥と、下水のような臭いが染み付いているようだ」
「……筆跡の修正ならば、今すぐに書き直します。ですから決裁を」
「いや、ダメだね」
バルデルは書類をピンセットでつまんだまま、ヒラヒラと振った。
「この紙自体が汚れているんだよ。……そもそも、孤児院への支援? なぜ神聖なる王国の税を、生産性のない『ゴミ』どもに使う必要がある?」
「彼らはゴミではありません! 未来の国民です!」
「いいや、ゴミさ。親に捨てられたものは、すべからくゴミだよ。片親、継親……すべてな」
彼はうすら笑いを浮かべながら、足元のペダルを踏んだ。
机の横にある焼却炉の蓋が、カシャンと開く。
「ゴミに金を使う書類もまた、ゴミだ」
パサリ。
彼がピンセットを離す。
クラリスが三日間、不眠不休で調整し、各省庁に頭を下げて回った書類が、赤い炎の中へと落ちていった。
「あ……」
クラリスの手が空を切る。
灰になっていく。
子供たちの命綱が、灰に。
「書き直しだ。……僕の目が汚れない、美しい書類を持ってくるんだ。まあ、君の血筋では一生無理かもしれないけれど」
「…………承知、いたしました」
クラリスは唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、深く頭を下げた。
今ここで暴れれば、それこそ孤児院への道は閉ざされる。
彼女は屈辱に震える背中を向け、部屋を出て行った。
◇
バタン。
扉が閉まる。
部屋に一人残されたバルデルは、ふぅ、と大袈裟に息を吐いた。
「……不快だ。実に不快だ」
彼は呟きながら、周囲に誰もいないことを慎重に確認した。
そして。
「……あぁ、せいせいした」
彼は机の引き出しの奥——二重底になっている隠し場所を開けた。
そこに入っていたのは、薄汚れたボロ雑巾だった。
かつて掃除夫が床を拭き、捨てようとしていたものを、彼がこっそり回収したものだ。
黒ずんだ雑巾を顔に押し当てたバルデル。
私は水鏡のその魔導映像を見て、目を大きくさせた。
「スーッ……ハァ……。たまらない……このカビ臭さ……」
先ほどまでの潔癖な態度はどこへやら。
彼は恍惚とした表情で、雑巾の汚れを頬に擦り付けた。
「綺麗すぎる世界は息が詰まる……。ああ、もっと汚したい……もっと埋もれたい……」
彼は立ち上がり、部屋の隅にある高価な白磁の壺に近づく。
そして懐から、先ほど鼻をかんだティッシュを取り出すと、壺の裏側の隙間に、ギュウウゥッとねじ込んだ。
「ふふ……この部屋も、少しずつ汚れてきているぞ……誰にも気づかれずに……僕だけのゴミ溜めだ……」
◇
「……見つけたぞ」
ダンジョンのメインルーム。
その倒錯した現場を目撃した私は、ニヤリと口角を上げた。
「彼は潔癖症じゃない。……『隠れ汚物愛好家』だ」
「なんと……。完璧を演じる反動で、内側にはドス黒いヘドロが溜まっていると?」
ノクスが呆れたように呟く。
「ああ。綺麗な場所を汚す背徳感、そしてゴミに埋もれる安らぎ。あいつはそれに飢えてるんだよ」
私は指を鳴らす。
これで勝負あった。
奴の弱点は『ゴミ』だ。
彼自身を堕落させるのは簡単だろう。
「エイレン、出番だ」
「まかせろ主」
私の横で赤髪をひとつに結んだエイレンが微笑む。
「部隊を使う、最初の任務だな」
「部隊ぃ?」
アウレリアがトロンとした表情を浮かべる。
「そうだ。己の忠実なる部下たちは、聖白教ではなく己についたのだ……今は、癒やしの獣庭で飼育係の手伝いをしているが……」
「あの人たち、猫カフェの店員さんじゃなかったんだぁ……!」
「無論。カフェの店員というものは得てして最強だったりするものだ」
「それは、よくわかりませんが……」
エイレンの言葉にノクスが目を細める。
「でも、あの男、クラリスちゃんを泣かせたねぇ……。かわいそうだよぉ……絶対に許さないよぉ」
アウレリアの言葉に私も同調する。
「同感だ。だから、彼に『最高の餌場』を用意してやろう」
『餌場?』
「とびきり汚くて、誰にも邪魔されず、思う存分ゴミになれる場所をな」
水鏡の中、雑巾を吸うバルデルを見下ろして、私は宣言した。
「今夜だ。……あの偽りの白い城塞を、内側から食い破ってやる」




