五月の海―― 測距儀②
穂波はゆっくりと旋回をつづけている。しばらく、と斎門は言ったが、日が高くなっていく。穂波はもう一度斎門を呼んだ。
『斎門、どこにいるんだ?』
返事は少し遅れて、
『おまえがいる地点より少し南だ』
『どうして私を合流させない?』
『今俺がいる場所はちょっと厄介でな。おまえには危険すぎる』
『斎門――』
『そこで待機してろ!』
◇
何万羽という海鳥もどきが斎門を襲う。斎門は長い魔剣で群れを薙ぎはらいつつ、口から火炎も吐いていた。頭上では顕仁が別の群れを退治している。
ギャッギャッギャッ!
ギイッギイッギイッ!
ギャアッギャアッギャアッ!
このあたりに多いオオミズナギドリそっくりに創られた魔獣は、不快な鳴き声を発する。その声は、魔の者である斎門の頑丈な耳をも聾しかねないほどに大きい。魔剣に切り裂かれた群れは、羽毛と赤黒い血を撒き散らして消えていく。群れが消失したあとも、撒き散らされた血はしばらく空中を漂い、徐々にひとつのものとなる。放置すると空を泳ぐ蠍へと変化してしまう。そうなると面倒だった。赤黒い血がひとつに集まる寸前に、斎門は火炎を放射する。殲滅していく。
下方から何かが飛翔してきた。すっと斎門と並ぶ。斎門は驚いた。
「オクタヴィア!」
「ずいぶん大量に湧いていますね」
言いながら、オクタヴィアも魔剣を振るいはじめる。
「チャイカはこんなのを放って何をしようと?」
「通信妨害さ」
「通信妨害?」
「下を見てみろ」
「……灰色のあれはホンゴウの艦隊?」
「ああ。第三艦隊だ。主力は老朽化した巡洋艦ばかりだが」
「ずいぶん大胆なことをしていますね」
眼下に広がる海では、今、笹岡中将率いる第三艦隊が、北上するバルチック艦隊に密着しているのだった。旗艦スワロフの左舷に並んでいたが、一気に速度を上げ、その前へ回りこんだ。より正確な進路を読み取ろうとしているらしい。
「偵察はいいけれど、あの位置で砲弾をくらえば木っ端微塵でしょうに」
「艦長以下、覚悟のうえだろうさ。ぎりぎりまで通信する気でいる」
「エヴァンジェリンスキーはなぜ撃たないのですか?」
「今は砲撃を禁じているんだ」
「フルーリックからの情報ですか?」
「ああ」
フルーリックが活躍している。バルチック艦隊の艦から艦へと飛び回りながら、情報収集しているのだった。チャイカの防御魔法にも、ところどころに小さな隙があるのだという。その隙から旗艦内や他の艦内へ忍びこんだらしい。
「エヴァンジェリンスキーは、敵艦がおのれの艦隊の陣形について報告を打電しつづけているのに、妨害電波を発することもさせない」
「なぜでしょう?」
「本郷との合戦までは余計なことに神経を使うな、という考えなんだろう。チャイカは業を煮やして、こいつらを送りこんできた。通信妨害のための魔獣だ。艦砲の撃ち合いが始まったら、もっと獰猛な魔獣を使ってくるはずだが。旅山の空に放ってきたようなのをな」
「獰猛な魔獣。あたくしたちにも用意があります」
オクタヴィアの美しい口元に笑みが浮かんだ。
「この鳥の群れ、さっさと片づけましょう」
◇
穂波の匂いを追ってきた黒い影は、思わぬ事態に遭遇していた。突然どこからともなく海鳥が数十羽飛んできたかと思うと、あっというまに数万羽の大群となって進路を塞いだのだった。
進路だけではない。海鳥の群れは黒い影の左右にも背後にも押し寄せた。不快な鳴き声を発し、黒い影の平衡感覚を狂わせていった。
さらに、まずいことが起きた。
強い魔の力が二つ現れ、群れを一掃しはじめたのだった。
(ここを脱け出さなくては!)
黒い影が群れのなかでもがいているさなか、鳥たちの羽毛のあいだから赤黒い血が噴き出した。
「ひいっ!」
堂本頼子にいのえさまと呼ばれていた魔の者は、その顔に血の飛沫を浴びた。――嗅覚が、麻痺した。この者は、嗅覚によって方向感覚も得て、動きまわることができるのだった。それが失われた今、飛翔をつづけることができず、落下するほかなかった。
落下して――落下して――
気づくと、大きな樹の太い枝にひっかかっていた。
(ここは……どこじゃ……?)
あたりには見慣れない樹木や草が生い茂っている。潮騒の音が、近い。
「穢れぞ」
男の声がした。
瞬時に、黒い影は蛇へと変身した。
人間が草を踏む音が近づいてくる。二人、ゆるやかな傾斜地の下から昇ってくる気配がある。
「穢れ?」
「おまえ、わからぬか? 感じぬか?」
「何をですか?」
声の主二人が現れた。老人と少年だった。どちらも白装束を身にまとっている。
「女人よ。女人の穢れよ」
「まさか! と、とんでもないことでございます」
「ありえぬことよの。あってはならぬことよ」
「女性がどうやってこの島に上陸するとおっしゃるのですか?」
「……わからぬ。だが、わしは感じる。感じられてならん」
老人が厳しい目で空を仰いだ。
しゅるしゅるっ――蛇は草陰に身を潜めた。麻痺した嗅覚が戻ってくるまで、じっとしているほかはない。




