五月の海―― 測距儀③
寝床のなかで雪がぐったりしている。
「雪っ!」
彦乃は雪の額に手を当てた。熱い。コレラ? 赤痢? 疱瘡? 恐ろしい病名ばかりが頭に浮かぶ。
「お満佐さん、塩原先生を!」
「おタキさんが呼びにいってくれています。氷を――氷を分けていただけないか、真壁さんに聞いてみましょう」
満佐が言いながら、部屋を出ていく。伯爵家には氷があるらしい。
無言で突っ立っていた学生が畳に膝をついた。
「臭う」
「臭う?」
学生が雪をそっと抱き起した。
あっ、と彦乃は胸のうちで驚きの声をあげていた。
敷布団に黒い染みが浮いている。麻の葉紋様――雪の寝間着に彦乃がほどこした背守り縫いの紋様だった。
学生は左腕で雪の体を支えながら、右手で布団の黒い染みに触れた。彦乃に意味ありげな視線を投げた。彦乃は不安になった。
学生はさらに敷布団の上半分を手前に捲った。――布団の下の畳にまで、麻の葉紋様が黒く染みこんでいる。学生は畳の染みも右掌で触って、その掌を鼻へ持っていく。
「この臭いに覚えがある。悪さをした奴がいる、ということ」
「悪さをした? 誰がです?」
「人間では、ない」
彦乃は耳を疑った。
「でも、私たちの仲間でもないからね。いっしょくたにしないでほしい」
私たちの仲間?――その意味するところは彦乃にはわからなかったが、にわかに学生に期待する気持ちになった。
「どうしたら雪を救えるんですか?」
学生は首をかしげた。
「わからない」
彦乃は畳にまで染みこんだ黒い何かを見つめた。忙しく考えをめぐらせた。小さな閃きがあった。
「試してみたいことがあります。雪を書斎へ移します」
◇
ドンッ!
突然だった。
誰かに殴られたような重い痛みをみぞおちに感じて、空中で穂波は体を折り曲げていた。
そのあと、奇妙なことが起きた。猛烈な睡魔が襲ってきたのだった。空中で眠りに落ちたら、どうなるのだ? そう思ったが、何の不安もなかった。――不安は、なかった。
穂波は幼い雪と離れの寝室にいた。蚊帳を吊った寝床に、二人で横になっているのだった。室内には月明かりが差し、梔子の甘い香りがむせるほどに満ちている。
「お父さま、お話、して」
そうせがむ雪は、小学二年生ではなく、まだ三歳くらいのようだった。雪はまだ赤ちゃん顔をしているなぁ、などと穂波は思う。雪を愛しく思う気持ちが、思いがけないほどの強さで胸をしめつけてきた。
「むかしむかし信濃という国を治めるお役人がいました。夏休みに、お役人は京の都へ帰ります」
「きょうのみやこ、って?」
「大和の国の古い都だ。どこまで話したっけ?」
「わかんない」
「お役人が京の都へ帰るんだったね。途中で、お役人の乗った馬が暴れて、谷底へ真っ逆さま」
「怪我しちゃうの?」
「しないんだ。お役人は運のいい人でね。谷底には美味しそうなキノコがたくさん生えているではありませんか」
「ボク、キノコ好きじゃない。あのね、お父さま……」
「うん?」
「お父さま……」
「雪?」
「ボク、お父さまが好き。大好き」
「お父さまも雪が大好きだ」
穂波は雪を抱きしめた。
抱きしめた……。
体内から斎門の声がした。
『穂波、こっちへ来い!』
いきなり移動が始まった。眼前が白く光ったかと思うと、風が唸るようなゴーっという音を聞き――穂波は揺れる艦船の上にいた。海は荒れていた。
◇
彦乃は学生から雪を抱き取ると、カウチに腰かけた。膝の上に雪を俯せにした。寝間着の背守りの紋様が黒々と浮いて見える。学生が「臭い」という《《何か》》が、綿布の裏から表へと滲み出ているのだった。
臭い?
彦乃は背守り縫いに鼻を近づけた――臭いは感知できない。薄っすら、雪の汗の匂いがするだけだった。
「そこの打掛を雪の上に掛けてください」
「ウチカケ?」
「衣桁に掛かっている、それ」
学生は彦乃に言われたとおりにすると、隣に腰かけた。
「何が起きるのかな?」
「わかりません」
彦乃は心のままに答えていた。打掛の上から雪の背中をそっと摩っていた。
扉がノックされた。
「坊やはこちらかな?」
堂本家と親しい塩原医師の声だった。
学生が立って、扉を開け――後ずさった。塩原医師が入ってきた。一人だった。
「先生――」
彦乃は言いかけて、何かおかしい、と気づいた。医師の到着が早すぎないだろうか?
「何が起きるのかな?」
塩原医師が柔和な表情で言う。
彦乃は学生のほうを見た。学生はため息をついて穂波の椅子に腰をおろした。彦乃が視線を戻すと――目の前にいるのは茶阿医師だった。




