五月の海―― 測距儀①
頭上に星々。
眼下には、幾筋かの雲を隔てて、黒々とした海原だけが広がっている。
穂波は大気のなかをゆっくりと飛翔していた。飛翔しながら夢を見ていた。菖蒲湯。粽を盛った籠。彦乃のほっそりした白い首……。
まどろみつつ夜明けを迎えた。
斎門の右眼を飲みこまされて移動しているというのに、頭痛も吐き気も襲ってこない。気分は爽快といえるほどだった。――だが、斎門はどこにいる? いっしょに飛ぶ、と言っていたはずだが。
穂波は呼びかけた。
『斎門?』
応答は無かった。
自分はどのあたりの上空を飛んでいるのか? 雲の下へと降下しながら、穂波はふたたび呼びかけた。
『斎門? どこにいる?』
今度は返事がかえってきた。
『目覚めたようだな。しばらくそこで旋回して、待て』
◇
待って、待って、ツキミちゃん。
雪が声を弾ませて駆けてくる。
雪を抱きとろうと、彦乃は両手を広げた。
得体の知れないどす黒い何かが眼前に広がった。
待って、待って……ツキミちゃん……。
雪は何度も同じことを言う。けれど、その姿が見えない。
弾んでいた声が、苦しげな荒い息づかいへと変わっていく。
不気味な黒い何かを搔き分けようと、彦乃は両手を伸ばした。
――目が覚めた。
書斎のカウチに横になっている、と気づいた。自分が縫い取りをほどこした打掛が、上掛けのように体に掛けられている。
(穂波さまが掛けくださったんだわ。私ったら……うたた寝なんかして……。穂波さまはどこにいらっしゃるのかしら?)
彦乃は打掛を衣桁に戻した。
何か恐ろしい夢を見なかっただろうか?
夢の記憶は曖昧だった。黒い霧のようなものが眼前に広がっていたような……。
書斎を出ようとして――穂波の机に載っているものに目が行った。原稿用紙に何か走り書きされている。
震える指先で懐中時計を横へすべらせて、彦乃は原稿用紙を手に取った。そこに書かれた一行を信じられない思いで見つめた。
顔の皮膚と指先がすっと冷たくなる。軽い痺れの感覚が生じる。
涙がこぼれることはなかった。彦乃は、生まれて初めて、憎悪という感情がどのような味わいのものか思い知らされている。
斎門さま……あなたを赦すことが……できません。
懐中時計の針が六時五分を指していた。
彦乃は重い地厚のカーテンをすべて開け、窓も開け放った。灯っているランプをすべて消した。
扉が開いた。
「彦乃」
穂波の笑顔がそこにあった。
さまざまな感情が一気に噴き出してくる。
思わず知らず、彦乃は頭を振っていた。
「あなたに用はありません」
「冷たいんだね」
「消えてください」
そのとき、玄関ホールのほうで満佐の声がした。
「失礼いたします! おやすみですか? 雪坊ちゃまが――」
声にただならぬものがある。




