五月の海―― 書斎の打掛②
「今回は長くても二十四時間だ。それ以上私を拘束するな」
斎門はにやりと笑った。
「二十四時間は……難しいかもしれんが、四十八時間以内には終わるさ。どっちの艦隊も弾切れ、燃料切れになるからな」
「本郷が率いる連合艦隊が、洋上でバルチック艦隊の位置を確認できたら、の話だろう?」
「確認するさ。時間の問題だ」
斎門はあっさり言った。
「東郷の参謀が、哨戒海域を碁盤の目のように区分して、徹底的に哨戒を遂行させている」
「連合艦隊が敵艦隊と出会っても、その大半を取り逃がしたらどうなる? その可能性はあるはずだが?」
「その場合はぐだぐだと戦闘が続くだろうが、今はそれを考えても意味がない。余計なことは頭から排除しろ」
パチン!
斎門の指が鳴った。
穂波は着替えさせられていた。ドレスシャツにサスペンダー付きのズボンを身に着けている。それでいて素足のままなのだが。菖蒲湯から上がって着たばかりの着物は、どこへ消えたのか、見当たらない。
斎門は穂波のシャツの襟に触れ、
「彦乃が守りの刺繍をほどこしたシャツだ。背守り、だったか?」
悪魔の緑色の眼は、輝いていた。
そうか。穂波は気づいた。守宮は、斎門がわざと退治させたのだ。この情けない奴隷をちょっといい気分にさせてやるために。欺くために。斎門は、いつでも、何度でも、同じ術を仕掛けることができるのだ。
「さあ、行くぞ」
「まだ時間はあるだろう? 戦闘が始まるまで十五、六時間というなら――」
「その時間をここで潰したくない。おまえに未練がましい真似でもされては、困る」
「黙れ、斎門……」
「おまえには一週間、家族水入らずの時間を与えたかった。それくらいの時間はあると思っていた。おまえを……なんというか……完全にすっきりさせることができると考えていた。だが、予想が外れた。なまじ、おまえが彦乃と閨で――」
「黙れ!」
「閨で彦乃と愛しあったおまえを、夜明け前に叩き起こして、無理やり彦乃と引き離して仕事に駆り出す。それではうまくいかない。おまえは使いものにならない。俺はそう判断した。――行くぞ!」
「待て」
「待てん」
「一分だ」
穂波は原稿用紙の一枚に走り書きを残した。
『四十八時間以内に帰る』
ふだん机の上に置いたままにしている懐中時計を、文鎮がわりに走り書きに載せた。――あることに思い至った。洋行から帰還を果たしたばかりの自分。その自分の四十八時間の不在。どう辻褄をつけるのだ?
「四十八時間、誰がこの家で偽の父親、偽の夫を演じるんだ? まさか、また――」
「まさかの、あれさ。心配するな」
悪魔が穂波の肩をぐいと引っ張った。芳しい息を吹きかけてくる。
いつもどおりの手順だった。悪魔の右眼が穂波の喉を落ちていった。
◇
子供は目覚めないまま手足をばたばたさせている。はあっはあっと、荒い息をしている。その息が、熱い。
「おとうさま……おとう……さま……」
うわごとの声が小さくなり、やがて、聞こえなくなった。
(ん? 穂波の匂いが――)
穂波の匂いが遠ざかっていく!
黒い蛇は中庭へ這い出た。
西の方角へ二つの光が飛んでいく。
(ああっ! 穂波っ! どこへ行くのじゃ!)
蛇の姿となっていた何者かは、ふたたび黒い影となって夜空を泳ぎはじめた。二つの光を追っていった。西へ――。




