五月の海―― 書斎の打掛①
穂波はカウチの上に彦乃をそっと寝かせた。胸のうちには憤怒の炎が渦巻いている。けれど、頭の芯は冷えていくばかりだった。斎門が彦乃を眠らせた、その意図に気づいていた。自分はまた飛ばされるのだ。斎門の右眼を飲みこまされて。
奥の書棚の前に、衣紋竹に掛けられて、精緻な縫い取りのほどこされた打掛が飾られている。彦乃の古い裁縫箱と新しい大きな裁縫箱。きちんと畳まれた二枚の浴衣と一枚のドレスシャツ。それらもコーヒーテーブルに載っている。すべて、斎門が指を二、三度鳴らして、斎門の家からこの書斎へと移動させたものだった。
純白の高級綿布でできた仕立てのいいシャツには、二枚の浴衣と同じく、彦乃が斎門の家で手掛けた背守り縫いが入っている。
「穂波。仕事だ」
「なぜ、今夜なんだ? なぜ、おまえはいつもこういう不意打ちを仕掛けてくるんだ?」
穂波は妙に落ち着いた自分の声を聞いている。激昂した口調にはならなかった。なぜか、そうならない。諦めの気分だけが支配的になっていく。
「おまえの仕事はすべて俺の都合による。ずっとそうだった。慣れっこだろう?」
「…………。予定をさっさと言え。どっち方面だ?」
「対馬沖だ、もちろん。おまえに俺の右眼を飲ませるが、おまえ独りを飛ばすわけじゃない。俺も行く。――俺の計算では十五、六時間後に始まる」
「何が?」
「会戦だ。決まってるだろうが。艦砲の撃ち合いだ」
「十五、六時間後? なぜそこまでわかる?」
「距離と航行速度を計算すると、ドンパチが始まるのは明日の午後二時前後だ」
「敵が衝突を回避してウラジオストックへ急ぐ、ということは考えられないのか?」
「回避したくとも、東郷が行く手を阻む」
「私にどんな仕事をさせるつもりかわからないが、ひとつ条件をつける」
穂波は衣紋竹から打掛を外して、それを彦乃にそっと着せかけた。
◇
黒い影は蛇の姿となって廊下を這い進んだ。襖の隙間から子供部屋へ入っていく。子供は規則正しい寝息をたてていた。
(さすが、穂波の子よのう。きれいな顔をしておるわ。おまえは父親に愛されておるのじゃな。それが……われには憎い。穂波に愛される者は、すべて憎い。穂波の心は、まるごと、われのもの。われのものでなければならぬ)
熟睡している子供の周囲を黒い蛇が這う。腐った泥に似た臭気を放ちながら。
(雪よ、おまえは要らぬ子よ。生まれ落ちたのが罪なのじゃ)
子供の呼吸が乱れはじめた。黒い蛇は畳の上を這うのをやめない。
◇
「条件をつける? そんな立場にない、おまえは。何度も言わせるな」
彦乃との婚姻の前にも、同じせりふを聞かされた、と穂波は思う。斎門の威圧的な言葉を無視して、しゃべりつづけた。




