五月の海―― 消えた蝋燭
風が強く吹くでもない夜気のなか、伯爵家の庭と穂波の住まいとを隔てる樹々の枝がざわめいた。
夜陰にまぎれ、高野槙の梢から何かが――淀んだ沼底の泥に似た何かが離れ、大気のなかを泳ぎはじめる。黒い影となって。
(穂波よ。ようやく帰ってきたのじゃな。われにはわかるぞ。よい匂いがする。ああ……よい匂いじゃ……狂おしいぞ……!)
黒い影は、質素ながら美しい佇まいを見せる家屋の屋根――母屋の屋根に降り立った。そこから離れの書斎のようすを窺う。
(なんということじゃ! また邪魔が入りおった)
穂波のそばに魔の者がいる。大柄な人間の姿をしたその魔の者は、全身から強い光を放っている。侮りがたい力の存在の証だった。
(こやつは相手にせぬほうが得策か)
どうしたものか――?
黒い影は迷った。
(子供。あれを先に始末するとしよう。そして、今日こそは、あの若い嫁も――)
黒い影が動いた。腐った泥のような臭気で、あたりの空気を淀ませながら。
◇
伯爵邸の北の翼廊――。
頼子は狼狽えていた。
香木を焚きはじめてかれこれ一時間。この夜、何の変化も生じない。尊いお方のお出ましを告げるものが無い。いつもなら、室内の空気が渦を巻くようにゆっくり動きだし、蝋燭の炎が大きく伸びて揺らめくのだが。
「いのえさま? どちらに御座せられます?」
応答は無い。
「お声をお聞かせくださいませ」
やはり応答は無かった。
正面に祀った伎芸天像を、頼子はぼんやりとながめた。北の翼廊の突き当りにあるこの部屋で、深夜の数時間を過ごすための口実として用意したものだった。先代伯爵夫人は伎芸天を篤く信仰している。深夜の祈祷も欠かさない。周囲はそのように見なすだろう。何も不審には思うまい。そう考えていた。
こんな木像、何の意味もない! いのえさまこそ私の守護者。いのえさまだけが私の願いをお聞き届けくださった!
いのえさま。聖武天皇の第一皇女、井上内親王殿下。あまりにも華麗なお血筋ゆえに、野心を疑われたお気の毒なお方。帝を呪詛奉ったなどという冤罪を仕組まれて、廃后の屈辱を味わわれた……。その怨念の深さこそ強い魔力の源泉。そのように、頼子は承知しておりました。
いのえさまのご無念、わずかかもしれませぬが、頼子はお察し申し上げていたつもりでございます。とはいえ、至らぬ点が多々あったとは存じます。――おのれの不甲斐なさが頼子は悔しい。
「いのえさま! 頼子にもう一度機会をお与えくださいませ。お慰めの方法を、もっともっと工夫いたします」
もう一度機会を……どうかお見捨てなきよう……お戻りくださいませ……お戻りくださいませ………………
高価な伽羅を重ねて何度も香炉に焼べ、頼子はさらに一時間待った。
夜が更ける。
返事はなかった。
激しい動悸と眩暈に襲われ、頼子は床に突っ伏した。
目覚めると、蝋燭は燃え尽き、室内は真っ暗だった。
頼子は最悪の事態を予想した。いのえさまは、二度とお戻りにはならないかもしれない。




