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五月の海―― 守宮退治

 十時。

 茶の間の柱時計が時を告げる。

 何も言わず、穂波は彦乃の手を引いた。手提げランプで足元を照らした。


 今夜、と穂波は思っていた。

 彦乃とひとつになりたい。

 二人だけの時間のために、どうしても解決すべき問題がある。


 母屋にも離れにも監視の術が仕掛けられている。まちがいない。術を解け、と斎門に命じても無意味だとわかっている。悪魔は平気で嘘をつく。術は自分で解く、と穂波は決めた。


 プリンスタウン刑務所で獰猛な犬を倒したあの夜から、しばらくは、心安らぐことがなかった。自分のなかにも魔の力の萌芽が兆しているのか? 鬱々としていた。――だが、変化が事実であり、それが不可逆的なものならば、受け入れるほかない。


 離れの玄関ホールで、穂波はつないでいた彦乃の手を放した。天井の吊りランプを灯した。

「ここを掃除する」

「……汚れていますか?」

「清潔ですよ、奥さま。掃除というのはね、術を取り除くこと。斎門が余計なことをしたらしい」

「…………?」 


「今から陰陽師の真似事をしてみる。笑わないで見ていて」

「笑いません」


 自分が斎門なら、監視の仕掛けは高い位置にほどこすだろう。穂波は目を閉じた。右腕はまっすぐ上に、左腕は――どうしたものかな?――斜め上にあげた。指先に意識を集中する。


 指先が熱を帯びてくる。

 すぐには何も起きなかった。


 意識の集中が途切れそうになる。無になれ、と自分に言い聞かせる。視覚が眼から指先へ移ったかのように、離れのすべての天井や梁のようすが脳内に展開されていく。


 数分経ったと思われたころ、標的を見つけることができた。小さな何かが、このホールの天井に一つ、書斎の天井に一つ、寝室に一つ、息づいている。それぞれの頭部と思われる位置に、眼のようなものが二つ光っている。


 穂波は息を吐いた。さらに、指先に意識を集中させる。


 彦乃が小さな悲鳴をあげ、穂波は目を開けた。

 天井から床に落下したらしい何かが、煌めきながら消失した。


「何だったと思う?」

「何でしょう……守宮(やもり)に似ていたような気がしますけど」

「守宮!」

 穂波は笑った。


「斎門さまは守宮で何をするおつもりだったんでしょう?」

 監視、と言おうとして、穂波は婉曲な表現を探した。

「見守り、かな」

「……いつも見ていらしたのでしょうか」

「どうかな。ときどき、いや、たまにかもしれない」


 彦乃の顔がわずかに曇る。いつも、ときどき、たまに。同じことだ。私生活を覗かれていたことに変わりはない。


「すまない。こんな変な家へ嫁入らせることになってしまって」 

 曇りかけた彦乃の顔が、さっと晴れる。

「お嫁入りからずいぶん時間が経ちます」

「そうだね。祝言からもう四年、か。彦乃、今ごろになって離縁を申し入れてきても、私は聞く耳を持たない」


 不意に、胸に痛みを覚えた。自分の言葉にうろたえている。四年ものあいだ、自分は彦乃に孤独を強いたのだ。


「彦乃――」

 痛みは鋭さを減じ、甘美な何かへと転じて、喉元までこみあげてくる。彦乃を見つめた。


「私は、ばかだ」

 愛する妻の顔を両手で包み、引き寄せ、唇を重ねた。


 荒々しい衝動が、少しだけ乱暴な行為へと穂波を駆り立てていく。唇を貪り、舌を吸った。ほっそりした喉も強く吸った。耳たぶを噛んだ。舐めた。興奮に呼吸が乱れていく。彦乃の体は小刻みに震えている。穂波は彦乃を抱き上げ、廊下を奥へ進もうとして――


 書斎の扉が開いた。戸口に、忌々しい悪魔が立っている。

「彦乃はちょっと眠らせた」


 確かに、腕のなかの彦乃が急に重くなったように感じられるのだった。

「斎門っ!」


「そこのカウチに寝かせてやれ」


 体の奥から怒りが炎のように噴き出すのを感じながらも、穂波は、眠りに落ちた彦乃を抱いて書斎へ入った。


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