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五月の海―― 旗艦の信号旗

 斎門は、新橋駅頭で家族との再会を果たした穂波と別れると、京橋の斎門商会へ回った。貿易商として、宮内省御用達の商品を扱う商人として、片づけなければならない些末な仕事がある。


 数日前、春先に帝都へ戻って以来はじめて、長距離を移動した。青羅(せいら)半島の南端に位置する湾まで飛んだ。大和帝国海軍連合艦隊第一艦隊の旗艦である三笠。その三笠の司令長官室に降り立った。


 数時間のあいだ、小柄な東郷のそばを離れずにいた。その思考を読みとると、この経験豊富な軍人には何の迷いもないことがわかった。――敵は対馬沖を通過する。それ以外の選択肢がないゆえに。この湾から動くのは、敵艦見ゆとの報告が入った、そのときだ。静かに待てばいい。


 満足して、斎門は帝都へとってかえし、そのまま大本営海軍部へ飛んだ。――斎門の想像とはちがって、作戦班の人間たちも、敵は必ず対馬海峡を通過する、と確信していることがわかった。津軽海峡通過も宗谷海峡通過も、敵は断念せざるを得ない。対馬海峡通過と比較すると、航海の困難さが段違いに飛躍する。その点を、敵の司令長官が理解していないとは考えられない。太平洋ルートを選択すれば、燃料補給の問題も生じる。


 本郷と大本営の考えは一致している。そして、揺らぎがない。斎門は安堵した。


 だが。

 今、重い気分でいる。

 フルーリックから伝えられていた。開戦はおそらく四十八時間以内だろう、と。昨日のことだった。バルチック艦隊が、上海沖で運送船六隻を艦隊から切り離したのだという。


 斎門は、穂波の帰宅を五月二十六日と決めたとき、開戦は六月の第一週と予想していた。多少早まるとしても、穂波を次の仕事に就かせる前に、少なくとも七十二時間はあるはず。それだけの時間を与えてやれるはず、と考えていた。今にして思えば、希望的観測というやつだったな……。


 斎門は事務机の前に座った。仕事を片づけるのに、手間も時間もかからない。取引先からの通信文が溜まっていたが、すべてを宙に放り投げ、ふっと息を吹きかけるだけで内容は頭に入る。返信は、時間に余裕があるときは、あるいは興を覚えたときは、人間がするようにペンとインクで手書きしたりタイプライターを打ったりする。今はそんな悠長なことをしていられない。指を鳴らすと、社名入り封筒に納められた十通あまりの返書がデスクに並んだ。封筒には切手が貼られていて、消印も入っている。


「明日だ」

 声に振り向くと、十三星後家蜘蛛模様のガウンを羽織ったフルーリックが立っていた。


「開戦は明日の昼」

 フルーリックは壁にもたれた。腕組みをしている。

 

 明日の昼? 斎門は葉巻を取り出した。七十二時間どころか、四十八時間どころか、二十四時間も無いということか?

「半日でもずれこむ可能性はないのか? 明日の夜になるということは?」


「無い。今日一日、エヴァンジェリンスキーは艦隊に運動訓練をさせていた。時間調整をしたんだ。それをしていなければ、今夜にも対馬沖に着いてしまうはずだった。ついさっき――四時半だが、『戦闘準備』の信号旗が掲げられた。旗艦スワロフのマストに」

「そうか……」


「エヴァンジェリンスキーは、そりゃ、できることならトウゴウとやりあいたくはないだろう。だが、夜陰にまぎれて対馬沖を通過して、ウラジオストックまで遁走できるとは考えていないのさ。魚雷攻撃を恐れているんだろう。とにかく、あの男は昼間の戦闘を選んだ。――穂波はどこにいるんだい?」


「自宅だ。帰ったばかりだ」

「十二時間くらいは穂波に与えられるんじゃないか? リフレッシュのために」

「どうだろうか……わからん」


 十二時間。それでは逆効果になる。斎門はますます憂鬱になった。吸わずにいた葉巻を投げ捨てた。これでは、開戦前に穂波の()()を演出した意味がない。なまじ、穂波を雪と再会させてよかったのか? 彦乃と二人きりの時間を与えたのは、よかったのか……。


「それより、ルー、頼みがある。明日の早朝、学生をこっちへ寄越してくれ。こっちとは、穂波の家のことだが」

「学生? ああ、なるほどね。あれをまた役立ててもらえるとは、光栄だね」

「学生がよく理解するように、調整を頼む」

「何と言ってやればいい?」


「今回は短期滞在だ。二十四時間ばかり、穂波のアリバイ作りに協力するだけだ、と。子供の遊びの相手をするのはいいが、彦乃には触れるな、と。遠慮のない視線で彦乃を見つめるのも、禁じる。二十四時間以内でも、穂波が戻ってきたら、お役御免だ。さっさとウィンザーへ帰る。居座るのは厳禁だ」


 穂波と学生との入れ替わりに、彦乃は気づくかもしれない、と斎門は考えている。しかたがない。とにかく、スペアが要るのだ。


「禁止事項が多いんだね」

 フルーリックは笑った。

「了解した。――では、海上で」

 十三星後家蜘蛛模様のガウンがさっと翻り、次の瞬間には、何もなかった。


 斎門は窓を開けた。事務机に並んだ十通ほどの封書を束にして、外へ投げる。

「それっ!」

 仕事は片づいた。


 斎門は芝へ飛んだ。穂波の書斎に降り立った。 

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