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五月の海―― 望月櫻醉氏の帰国

 五月二十六日――。

 さまざまな土産物の詰まったトランク二つは斎門が用意した。その二つを両手に提げ、穂波は新橋駅頭に立った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とともに。


「どうだ? うまくいっただろう」

 斎門がささやく。


 見慣れない子供がいる――いや、あれは雪だ! 雪は彦乃と手を繋いでいた。二人の背後には、兄の輝長と、今は独身に戻ったのだという雅尚の姿もある。


「お父さま!」

 雪が駆けよってきた。

「雪っ!」


 雪は驚くほどに背丈が伸び、顔の輪郭がすっきりしている。幼児の面影はない。

 穂波は我が子を抱きしめた。不覚にも涙がこぼれそうになる。


「ああ……雪……雪……」

 あらためてよく見ると、雪は学習院初等科の制服を着ているのだった。

 

          ◇


 彦乃は、三週間前、端午の節句の祝い膳を用意したが、それはもちろん雪のためのものだった。穂波さまのためにも――そう思い、ふたたび、出入りの花屋に菖蒲を頼んでおいた。

 

 (ちまき)寿司をいくつもこしらえた。海老真薯(しんじょ)入りのお吸い物、ローストビーフ、茹でた蚕豆(そらまめ)、カスタードプディングも用意した。


 暖かく気持ちのいい夕べが訪れた。

 居間でくつろぐ穂波と雪に、彦乃は声をかけた。

「菖蒲湯をたてておきました。お夕食の前にさっぱりなさいませ」


 親子は一緒に入浴した。

 湯殿での親子の会話がかすかに聞こえる。彦乃は顔を両手で包んだ。上気しているのがわかる。自分は食膳の支度をしていて、夫と息子が湯から上がってくるのを待っている……眩暈(めまい)を起こしそうなほどの幸福だ。


 満佐はどことなく遠慮がちにしている。親子三人水入らずの夕餉に加わっていいものか、迷っているふうだった。


「お満佐さん、茶の間にいっしょにいてくれないと困ります。我が家に帰ってきたという実感が湧かない」 

 穂波が誘った。彦乃も微笑んだ。

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

 満佐が言った。


 穂波、雪、満佐。自分。四人で夕餉をともにしている。彦乃は胸がいっぱいになっていた。


 学習院初等科の二年生である雪が、この日ばかりは、三歳児に戻ったかのように父親にべたべたとまとわりついている。穂波もそれを受け入れている。ときどき膝の上に抱いたり、髪を撫でてやったりしている。その穂波と、膳をあいだにはさんで、彦乃は見つめ合った。心細かった日々の記憶は、淡雪がとけるように消え去っていく。

 やがて、雪も満佐も自室に引き上げた。


 菖蒲の香りのするこの夜の足並みは、ゆっくりしていた。

 彦乃が仕立てた真新しい着物をまとった穂波は、何も言わず、ただ微笑んで彦乃の手を取った。


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