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五月の海―― ポケットの中身

 月曜日――。

 彦乃は薄暗い階段を下りきると、重い扉を押し開けた。ベッドのあいだを茶阿医師が巡回している。

「B28さんのご容態は?」

 小声で尋ねながら、彦乃は茶阿医師のほうへ近づいていった。

 

 B28は、第七病棟に収容された二十八番目のイギリス人(British)だった。先週の金曜日の時点で、状態があまりよくなかった。


「安定している。心配なさそうだ。()()()()が止まった」

 彦乃はB28のベッドサイドに立った。()()の表情は穏やかだった。


「さっき数えたんだが、堂本君のおかげで無事に旅立つことができた魂の数が、六十を超えた。B28が旅立ってくれれば六十一番目ということになる。――堂本君、ちょっと話したいことがある」


 促されて、彦乃は病棟のすみに置かれた椅子に腰かけた。小さな机をはさんで、茶阿医師と――ときどき瞳が金色に見える医師と――向かい合った。


        ◇


 茶阿――井戸の博士――白銀(しろがね)産毛(うぶげ)の赤子は、内省していた。

 グレートゲームの進行に憤ったとはいえ、自分も利己的だったのだ。堂本彦乃も不運な人間であり、自分はその不運な人間を利用してきた。


 現実的な観点に立てば、この先何年も、一人の人間にこの仕事を押しつけることは難しい。そのことを自分は承知してもいたではないか。もっと多くの魂の旅立ちを見送るために、別の方策を考えだす必要がある。それも明白なこと。――そろそろ、この若い人間を解放してやるべきときなのだろう。


 その前に、やはり、確かめておくべきだろうか?


        ◇


「堂本君。聞いておきたいことがある」

 間があった。

「――?」


「きみには夫がいる。堂本穂波。斎門の奴隷だ。もし、おのれの命と引き換えに夫を自由の身にできるなら、どうする? その命、差し出す勇気があるか?」


 彦乃はすぐには答えられずにいた。答に迷ったからではなかった。聞いておきたいことがある。週三日以上手伝ってはもらえないか? そんな言葉が続くものと予想していたからだった。


 茶阿先生は、どうしてこんな質問をなさるのかしら?

 愛しい人がいるなら、女の答はいつも同じはずなのに。

 思わず知らず、彦乃は微笑んでいた。

 

         ◇


 堂本彦乃の反応は、茶阿の意表を突くものだった。

 ――なぜ、ここで微笑む?


「堂本君。笑うとは不謹慎ではないかね。私は重要な質問をしている。穂波が自由になるなら、きみは命を捨てられるのか?」

「はい」

 迷いもなく、人間の若い女は答えた。どこか夢見るような目になっている。


 そうか。

 茶阿は気づいた。

 堂本彦乃というこの若い女は、まったく理性的ではない。夫のために身を捧げる。そうした麗しい考えに酔っているだけなのだ。刹那的な感情に流されているだけなのだ。今「はい」と答えたその心情に、嘘偽りはないのだろうが。


 ――いや、そのように評価するのは皮肉に過ぎるのか? 堂本穂波のhealerである彦乃にとって、最初から、迷うところはないのかもしれない。


「穂波の自由ときみの命、交換してもいいんだな?」

「はい。ですが、どなたが交換してくださるのですか?」


 茶阿は笑うほかなかった。

「どなたになるかな。どなたでもよかろう、結果が出るなら。――もう一度、聞く。穂波が奴隷の身分から解放されるなら、きみは命を捨てるのだな?」

「はい」


「本当に、いいのか?」

「はい」

「いいのか?」

「はい」


「一晩、ゆっくり考えてみてはどうかね」

「何を……ですか?」

「…………。日をあらためて、また同じ質問をする」

 茶阿は白衣のポケットのなかの薄い封筒を探っていた。


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