五月の海―― 誕生祝い
※目次の冒頭に「表紙絵」を載せました。ご覧いただければ幸いです。
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五月半ばの金曜日――。
チョコレートケーキの生地を竈に入れたあと、穂波は居間へ戻った。
「何をやってるんだ?」
斎門が新聞から顔を上げた。
「ザッハトルテを焼いている。明日、彦乃の誕生祝いをする」
「明日が誕生日だったか?」
「来週の水曜だが、水曜の晩ではゆっくりできない」
彦乃は築地の看護学校から斎門の家へ駆けつけてくるが、三十分ほどで芝へ帰らなくてはならないのだった。
「誕生日、か。二十二歳だな」
「私の妻の年齢まで正確にご承知とは、おそれいる」
いやみな口調で穂波は言った。
「俺はおまえたちの縁結び役だったんだ。ご承知で当然だろう」
斎門は新聞を畳んだ。にやにや笑っている。
穂波はカウチに腰をおろした。
「斎門。ずっと気になっていた。彦乃に話を聞こうか、とも思ったんだが――」
「何だ?」
「三年前の秋のことだ。確か、九月だった。奇跡的におまえと連絡が取れた、あのときのことだ。彦乃が死にかけている。そう聞かされた。おまえから」
「あの事件のことか……」
「何があったんだ?」
「亡霊どもが彦乃を連れ去ろうとしたんだ」
「ぼう、れい?」
「死にぞこないども。彦乃が引き寄せてしまう。そういう、なんというか……体質なんだな」
穂波は呆然となった。
冬の陽射しが長く射しこんでいた子供部屋の光景が、眼前によみがえる。みさ緒が、いた。斎門の術によって眠らされた雪のそばに。
「花扇という貴族の家で、彦乃はやはり亡霊に引きずられそうになったんだ。おまえとの結婚の直前だ。ミリセントが要らぬ術を放ったせいで、と俺は説明したが、事実じゃない。あのときのことは憶えていると思うが」
穂波はうなずいた。うなずいて、両手で頭を抱えていた。俯いたまま、思わず知らず、何度もため息をついていた。
「三年前の秋。その前の五月にも異変があった。おまえがフルーリックに横取りされる前の五月のことだ。それも憶えているな?」
「憶えて……いる」
「あのときは、みさ緒のほかにもう一人いた。正体はわからん。彦乃に影響したのは、その正体不明の亡霊のほうだろう。みさ緒はあのときより前から、ずっと前から、雪のそばにいたようだからな」
「みさ緒……」
「みさ緒は、今は、いない。――いや、いないはずだ。おまえに告げていったじゃないか。旅立つ、と」
しばらく、穂波は無言のままでいた。
彦乃はなぜうちあけてくれなかったのか? こんな不甲斐ない夫に話しても無駄だ。そう思っていたのか?
「体質は変えようがないのか?」
変えようは、ある。斎門がそう答えると、根拠もなく、穂波は期待した。――返事は、すぐには返ってこなかった。
「変らない、と考えておいたほうがいいだろう。だがな。彦乃を守ってやることはできるぞ。一日二十四時間。三百六十五日。愛しくてならない、とささやいてやれ。彦乃に。たっぷり愛してやるんだ。それで、彦乃の心を強くすることができる」
穂波は悪魔の顔をまじまじと見つめた。
ここは怒りを爆発させるところか?
そう思いながら、大声を出す気にはなれなかった。自分が不甲斐ないのだ……。
「ああ。私はそうしたい。だが、彦乃を不幸にするばかりだ」
「不幸?」
「彦乃は、奴隷契約で縛られている夫など、捨てて逃げだしたいと思っている。きっとそうなんだろう」
そうだとしても。自分はもう彦乃と離れられない。彦乃を失うことなど、考えられもしない。
「だが、誕生祝いのケーキは喜んで食べると思うぞ」
悪魔が言ってのけた。真面目な顔つきで。




