帰還―― 帝都に現れた蜘蛛①
真夜中――。
居間の天井からするすると一匹の蜘蛛が降りてくる。十三星後家蜘蛛だった。
「何の用だ?」
斎門が声をかけると、フルーリックが姿を現した。
「ずいぶんこぢんまりしたところに棲んでるんだね、きみは」
「何の用だと聞いている」
「久々に穂波の顔を見たいと思って。ここにいるんだろう? クリケットから話を聞いている」
「帰ってくれ」
クリケットは旅山で穂波を確保した話まではしていないはず、と斎門は推測した。あの小悪魔は、チャイカにたぶらかされて、旅山の切れ端でも手に入れるつもりだったのだろうから。そんなことがバレては、まずかろう。
フルーリックは漆黒の髪をかきあげ、微笑んだ。
「穂波には会わせてもらえないようだな」
「あたりまえだ!」
斎門は思いきり不機嫌な顔をつくってみたが、本心では、フルーリックの来着を歓迎しているのだった。
穂波を芝の家へ戻すと決めた時点で、場合によってはウィンザーへ飛ぶ必要も出てくるかもしれない、と予想していた。予想しつつも、エネルギーを無駄にしたくない、そんな面倒は避けたい、などと悩んでいたのだった。今、思いがけず、問題が解決した。――だが、フルーリックが俺を訪ねてきた目的は、何だ?
フルーリックは右手をさっと振って、新聞を取り出した。
「読んだかね?」
新聞をコーヒーテーブルに載せ、カウチに座った。優雅な動作で足を組む。
フルーリックがテーブルに載せたのは、ロンドンで発行されている日刊紙のデイリー・メールだった。『バルチック艦隊、マラッカ海峡を通過』という大見出しが躍っている。
「この帝都でも、すでに報道されている」
「揺さぶりをかけてみようと思うんだが」
「揺さぶり?」
「第二太平洋艦隊。ロシュラントの精鋭艦隊ではあるな。だが、母港を発ってから、すでに半年以上になる。本隊はスエズを通過できなかった。喜望峰を回らされた。乗員たちは精神的に疲弊しきっているはずだ」
「それで?」
「大和帝国海軍の連合艦隊が、すでに南方の海域に遠征してきている、待ち伏せをしている、と連中に教えてやったとしたら――?」
連合艦隊はそんな動きをしていない。フルーリックは、偽の情報で敵艦隊を翻弄してはどうか、と考えているようだった。
アイディアとしては悪くない、と斎門は思った。俺もそうしたいところだ――それを実行できる体力さえあったなら。だが、海戦勃発のその日まで、なんとしてもエネルギー蓄積を続行する。自分も、そして穂波も、完璧な状態で戦闘の場に臨まなけれならない。斎門はその考えでいた。
「そういう偽情報を新聞屋連中に掴ませる、ということだな?」
フルーリックはうなずいた。目を細め、細かい計算でもするような表情になった。
「さらに、バルチック艦隊がどこにも寄港できないように工作する。場合によっては、フランス外務省を疑心暗鬼にさせてもいいな。寄港地を提供したら、中立の立場を放棄することになるんだぞ。イギリスとの関係が悪化するぞ。国際紛争に巻き込まれることになるぞ、いいのか、と吹き込んでやる。――サイモン、きみが悩む必要はない」
「どういう意味だ」
斎門はポーカーフェイスを保った。
くそっ! こいつは、俺がエネルギーを節約せざるを得ない状態にあると、知っているのだ。




