帰還―― うさぎの縫い取り
穂波が芝の家へ帰る日は、五月二十六日と決まった。
「心配いらない。穂波の洋行帰りは俺がうまく演出する」
斎門匠が請け合った。
安堵と喜びで、日々の忙しさが一向に気にならない彦乃だった。看護学校での授業と実習。第七病棟での茶阿医師の手伝い。雪の世話。その合間のどんな短い時間も見つけて穂波と過ごすのが、このごろのあたりまえになっている。土曜日の午後は雪がバイオリンの稽古に出かけているあいだ、日曜日は雪といっしょに昼食をとったあとに夕方まで、穂波のそばにいられる。
急に家を空けるようになったことを不審がられないために、小さな嘘も必要だった。斎門が彦乃に教えた。
「満佐殿にはこう言えばいい。彦乃は、貿易商の斎門さんに頼まれて、斎門さんの家で、大和の国の伝統的な刺繍を教えている。イギリス人やアメリカ人の実業家の夫人たちにな」
穂波が記憶を取り戻したあの午後のあとも、彦乃は穂波といっしょにクリームパンや餡パンやアップルパイを焼いた。どれも雪への土産になった。雪には、離れの厨房で自分が焼いたのだと話した。ほかにどう説明できるだろう?
彦乃は斎門に頼んで、自室に飾っていた打掛を、衣紋竹ごと斎門の家へ運んでもらった。新たな紋様を縫い取るつもりでいた。この仕事はまだ終わりにしてはいけない。なぜか、そんな気がしてきたのだった。
願を立てた。夫が本当に、本当に、芝の家へ帰ってくるまで、これが「仕上がった」と思ってはならない、と自分に言っていた。
◇
衣紋竹に掛けられた衣装を目にして、穂波は息をのんだ。彦乃の手業に感嘆するほかなかった。
「これは北斗七星だね。こっちはオリオン座。それはカシオペアか。雪の結晶……きれいだ。青葉と稲穂。これはきみと私かな」
彦乃は微笑んだ。
「梅。桜。矢車菊。雛菊。朝顔。これは野アザミか。これは山茶花。この可愛らしいのは冬青の実だね?」
「はい」
彦乃はそう答えてから、なにごとかを考えるような表情になった。
◇
穂波さまにも何か縫い取っていただかなければ。そうしていただかなければ、願立てがうまくいかない。――ちょっとした思いつきだったものが、彦乃のなかで翼を広げる。羽ばたきはじめる。思いつきは確信へと変わった。
「穂波さまも何か縫い取ってください」
「私が?」
穂波は笑った。
「それはいい考えだとは思わないな。彦乃のこのすばらしい仕事を台無しにしてしまう」
「台無しになんてなりません。必要なんです」
「――?」
「穂波さまがそうしてくださることが。どうしても。お願いです。何か図案を考えて、縫い取ってください」
◇
彦乃の真剣さに押されて、穂波は紙と鉛筆を手にしていた。
絵を描くのは得意ではあった。どういう図案にするか決めるだけで、下絵は描けるという自信はある。だが、何を描いたものか? 穂波は彦乃の顔を見つめた。
うさぎ。
出会いの日の彦乃。
泣きだしそうな顔をしていた、あの日の彦乃。
うさぎが彦乃の膝に飛び乗ることがなければ、出会いはなかったのか?
「図案はどうやって絹地に写すの?」
「その形に紙を切り抜いて、絹地に当てて胡粉を塗ります」
見れば、彦乃が携えてきた裁縫箱の小引き出しには、胡粉の箱や筆などがそろっている。
穂波はうさぎの絵を描いた。牛乳入りコーヒーみたいな毛色の小さなうさぎを。まるまると太らせた。
「私の刺繍はなるべく端っこに入れよう。目立たないところに」
彦乃は笑った。
「どこでも。お好きなところに」
「輪郭と目鼻を刺繍するよ。それ以上のことは望まないで。毛色のところは、きみに任せる」
「お引き受けしません。このうさぎは穂波さまが完成させてください。糸の刺し方をお教えします」
というわけで。
穂波は小さなうさぎを刺繍した。雛菊と矢車菊のあいだに。針目はひどいものだった。なめらかな毛並みとは、言い難い。
「このうさぎ……躍動感ゼロだな」
「そんなことありません。今にも跳ねていきそうです」




