帰還―― マルセイユからの船
彦乃を芝へ送りとどけた斎門が戻ってきた。
穂波は斎門が淹れたコーヒーを飲んでいる。心落ち着かず、斎門が「極上の豆を気合いをいれて焙煎してネルドリップした」という飲み物を、味わいそこねている。
「おまえ、たまには約束を守るのだな」
「ああ。俺は、穂波を、取り返した。いや……正直に言おう。危うかった。結果的におまえをなんとか回収できた、というだけのことで。まる一年ものあいだ、おまえはチャイカに振り回された。憶えてるか?」
穂波は記憶をたどった。
エミリア。サンドリンガムの廊下に飾られていたクリスマスツリー。エカテリーナ宮殿の豪華な寝室。サモワール。ボルシチ。老いた賢者といった風情の魔の者。しわがれていながら妙に甲高い声。闇。砲声。怒号。兵士たちの断末魔の叫び。稲妻。雷鳴。猛烈な嵐。何者かに恐ろしい力で引き寄せられ、抗えずにいる自分。そして……。
脳裏に浮かぶのは脈絡のない断片ばかりだった。サンドリンガムから拉致されて以後のすべてに現実感がなかった。
「……いや。その一年のことは、実体験として記憶しているとは言い難い」
斎門は訝しげに目を細めた。
「そうか。それなら俺が話してやる。これまで何があったか。そのあと、今後の段取りを説明する。おまえは洋行帰りだ。辻褄を合わせてくれ」
体の奥底から湧いている何かが、穂波の心を鷲掴みにし、揺さぶった。
「斎門――」
「何だ?」
フルーリックによって獰猛な犬と格闘させられた。亡霊騎馬兵士たちの群れに放り込まれた。それらの経験は、はっきりと記憶に刻まれている。あのころはまだ、生身の人間として時間の鑢にかけられていた、と穂波は思う。
ペテルブルクに拉致されたとき、自分はすでに燃え尽きていたのだ。感受性が失われていたがために、戦場の凄惨な光景も意識を上滑りしていった。雷鳴轟くなか、喉から胸にかけて抉えぐられたあの一瞬、どんな恐怖もなかった。これで終わる……そう思えたからだった。自分は一度は終わった。それは疑いようもない。
「なぜだ? なぜ私はこうして生きている?」
穂波は喉元に手をやった。なめらかな皮膚の感触があるばかりで、傷の名残さえ無い。
「どういうわけで、おまえは生きのびて、帝都のどまんなかにある俺の家でコーヒーを飲んでいるのか。その説明にはちょいと時間がかかるな。だがまあ、簡単に言えば、おまえが彦乃を娶ったから、ということになる。彦乃との婚姻というアイディアは俺のものだ。俺に感謝しろ」
穂波の体はがたがた震えていた。半ば、名づけえぬ畏怖のせいで。半ば、強烈な歓喜のせいで。
◇
七十二時間のあいだに、穂波の傾眠傾向は劇的に改善した。彦乃は、時間を見つけては夫のもとへ通ってくる。さらに二十四時間が経って、穂波の睡眠時間は完全に正常に戻っていた。
そんな二人を眺めながら、斎門は心のなかでにやついていた。いつ、穂波は言ってくるのか? 「二階の来客用寝室をちょっと借りる」と。
斎門の予想は、またも、裏切られた。
――やっぱり、俺が下衆なだけなのか?
穂波と彦乃は、斎門が気を利かせて散歩に出ているあいだ――散歩に出たふりをして姿隠しの術を纏い、二人のようすを盗み見ているあいだ――身を寄せ合って語らうばかりだった。抱擁とくちづけと愛撫。それだけで穂波は我慢している。
誰と我慢比べをしているんだ? 自分自身と、か? そんなはずはない。意味がない。
斎門は苦笑いした。俺の家では意地でも禁欲を貫く。そういう考えでいるのだろう。いつまで持つやら。
だが、と斎門は思う。今、穂波が禁欲的でいてくれることは、好都合ではあるのだ。――大きな仕事が控えている。
バルチック艦隊と呼ばれるロシュラントの第二・第三太平洋艦隊が、刻々と極東に近づきつつある。
第二艦隊は、去年の十月にバルト海に臨む軍港を出航している。その本隊は、さまざまな理由で、スエズ運河通過を断念せざるを得なかった。アフリカ大陸西岸沖を南下し、東岸沖を北上するという信じがたい長距離航海を強いられた。疲弊しているはずだが、侮っていい相手ではない。穂波にはもう一働きしてもらう必要がある。どうあっても。
斎門はエネルギー量が徐々に回復しつつあるのを実感していたが、わずかでも無駄に体力を消耗するようなことは控えている。明綸宮殿へ忍んでいくことさえ我慢していた。インド洋の東端あたりまで飛んでバルチック艦隊の行動を偵察したいところなのだが、それは叶わない。
斎門はマルセイユ発の船便の予定を調べた。
「どんぴしゃだな」
辻褄を合わせることができる。
間に合う。
『望月櫻醉氏が長きにわたった洋行を終え、帰国の途に就く。五月二十六日、芝の自宅へ無事、ご帰還だ。望月氏がパリから発した国際電信が東京郵便局に着く。今夕にも、彦乃は電報を受け取る。伯爵や雅尚に、穂波の帰国予定を伝えておいてくれ』
彦乃宛ての短い手紙を斎門は二階の窓から投げた。
次いで、大きく息を吸いこんだ。東京郵便局へ向けて、一気に吐きだす。ウィングバックチェアに尻もちをついた。
パリ発の国際電信が――長崎のケーブルハットを経由していない特別な電信が――東京郵便局の受信機を鳴らしているはずだった。
「ぎりぎりだが、間に合う」
悪魔はほくそ笑んでいた。久々に大きな術を放った直後で、少し、目が回る。




