表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
196/233

帰還―― バニラビーンズの記憶③

 斎門邸のキッチンは贅沢な造りになっていた。壁面全体に上品な絵柄のタイルが嵌めてある。天板の上で調理もできる西洋式の(かまど(レンジ))が据えてあり、それは今、キッチン全体をほどよい暖気で満たしている。竈のなかでは、すでに、丸くまとめられたパン種が膨らみつつあるのだろうか? 斎門匠の術によって? 


「カスタードクリームの作り方を私に教えてくださったのは、穂波さまです」

「私が?」

「憶えていらっしゃいますよね」

 彦乃は穂波の目を見つめた。

 私が失うことのできない、かけがえのない穂波さま。憶えていらっしゃいますよね。どんな記憶も消えてはいないはずです。私がそう信じているのですから。

  

 四面に横文字が印刷されたバニラビーンズの箱を、穂波はしばらくじっと見つめていた。やがて、箱から黒く乾燥した細長い(さや)を取りだすと、大きな皿の上に載せてペティナイフで三等分した。莢にナイフを入れ、しごいて種を取りだす。赤銅あかの鍋に莢と種を入れ、ピッチャーの牛乳を注いだ。


 彦乃は穂波がすることを見ながら――清潔な細く長い指先を見ているだけで、うっとりした――自分はティーカップの上で卵を割っては、卵黄だけを別の鍋に入れていた。そこへ砂糖も加える。ふつうに使われている砂糖とはちがって、さらさらしている。これも輸入もののようだった。


 穂波は鍋を竈の天板に載せ、木べらでかきまぜはじめた。早くも、バニラの甘い香りがふわりと漂う。

「温めすぎないようにしないとね」

 穂波が言う。


 彦乃は卵黄と砂糖を泡立て器で丁寧に混ぜた。

 不意打ちのように、あの表紙絵が脳裏をよぎった。『美味しい戀の春夏秋冬』の表紙絵が。泡立て器を手にしたみさ緒さま……。彦乃は動揺した。穂波さまが記憶を取り戻したとして、真っ先に思い出されるのが、みさ緒さまと暮らした日々のあれこれだったとしたら……?


「ヒコノ?」

 穂波に声をかけられ、彦乃は我にかえった。


 穂波は温めたバニラビーンズ入りの牛乳を、網杓子にくぐらせて、彦乃の手元の鍋に注ぎ入れた。

「カスタードミルクのできあがりだ」

 そう言って、穂波は今度はカスタードミルクの鍋を竈の天板に載せた。ゆっくりゆっくり木べらでまぜあわせていく。

 その鍋に、彦乃はデザートスプーンで壺からすくった薄力粉を、少しずつ入れていった。鍋の中身にとろみがついてくる。――粉の入れ過ぎは禁物だ。


「ちょうどいいところで教えてください。私は分量がよくわからなくて」

 粉がスプーン三杯ほど入ったところで、穂波が「ストップ」と言った。カスタードクリームの鍋が、大理石の調理台の上に置かれる。鍋をかきまぜる穂波の手は止まっていない。


 キッチンのなかが暑すぎる、と彦乃は感じた。

 空気が熱すぎる。

 香りが甘すぎる。


 なぜか涙があふれる。

 震える声で、穂波が自分の名を呼んでくれたような気がした。


         ◇


 霧が晴れた、と穂波は感じた。同時に、過去の記憶のすべてが、脳内に一気にあふれてきた。すべてが繋がり、意味を持ちはじめる。体が震えた。

「彦乃……!」


 震えながら、穂波は彦乃の顔を両手で包んでいた。

 彦乃はこの自分であり、自分は彦乃なのだ。胸のうちでそうつぶやきながら、柔らかい唇に自分の唇を重ねていた。むさぼった。強く吸った。幾度も。幾度も。 


 はあ、と息を吐いて、穂波は笑った。

 今度はゆっくりと、彦乃の唇をついばんだ。幾度も。幾度も。――耳たぶを甘噛みした。彦乃がため息をもらす。

 穂波は体の芯が熱を帯びてくるのを感じていた。熱い。痛い。彦乃を強く抱きしめた。髪を乱暴に愛撫した。


「雪がうさぎを追いかけていって、うさぎがきみの膝に飛び乗った」

「穂波さま――」

「うん。憶えているんだ。忘れやしない。雪は?」

「元気でいます。今日はバイオリンのお稽古に出かけていて」


         ◇


 俺のコーヒーの出る幕がないじゃないか!

 まあ……よし、としよう。

 姿隠しの術をまとったまま、悪魔は笑っていた。

 今日は最高にいいことがあった。リクショーの車夫に、あと百回くらいチップをやってもいい。五十銭銀貨をはずんでやってもいい!


 斎門は居間へ戻り、姿隠しの術を解いて、キッチンへ戻った。俺も面倒なことをしているな。


         ◇


 わざとらしい咳払いが聞こえた。

 穂波は彦乃から顔を離した。

「斎門」

 彦乃が穂波から体を離した。

「こいつに遠慮する必要はない」

 穂波は彦乃の手を放さずにいる。


「穂波坊ちゃま、ご機嫌はいかがでありましょうか」

「止せ。坊ちゃまなんて呼ぶな。気色悪い」

 言いながら、穂波は自分の口元が緩んでくるのに気づく。しぜんに笑みがこぼれてしまうのだった。


 斎門が指を鳴らした。竈の扉が開いた。いくつもの丸いパンが宙を飛んで、調理台の上のバスケットに納まる。

「まあ!」

 彦乃の顔が輝いた。


 斎門はふたたび指を鳴らし、口金付きの搾り袋も用意した。

「これでパンにクリームを詰めるんだろう?」

 そのとき、居間の箱時計(グランドファザーズ)が、一つ、鳴った。

「三時半だ」

 斎門が言った。

「雪ちゃんが帰ってきます。急がないと」

 彦乃が穂波を見上げた。


「斎門。パンを雪の土産にしたい」

 斎門の指がもう一度鳴った。鍋のカスタードクリームが、うまいぐあいに、焼きあがったばかりの丸いパンに詰められた。


「おまえ、私の言葉はすぐに理解するし、わりと気も利くんだな」

「そうさ。俺は気が利く。今ごろ気がついたのか」

「彦乃は明日もここへ来るんだ。いいね?」

「はい。もちろんです」


 ふと、穂波は不安になった。記憶に欠落している部分がある。

「今日は……何月何日だ?」

 斎門を見た。

「四月一日。土曜日」

「明綸三十六……三十七年、だな?」

「いや。明綸三十八年。一九〇五年だ」

 穂波は言葉を失った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ