帰還―― バニラビーンズの記憶③
斎門邸のキッチンは贅沢な造りになっていた。壁面全体に上品な絵柄のタイルが嵌めてある。天板の上で調理もできる西洋式の竈が据えてあり、それは今、キッチン全体をほどよい暖気で満たしている。竈のなかでは、すでに、丸くまとめられたパン種が膨らみつつあるのだろうか? 斎門匠の術によって?
「カスタードクリームの作り方を私に教えてくださったのは、穂波さまです」
「私が?」
「憶えていらっしゃいますよね」
彦乃は穂波の目を見つめた。
私が失うことのできない、かけがえのない穂波さま。憶えていらっしゃいますよね。どんな記憶も消えてはいないはずです。私がそう信じているのですから。
四面に横文字が印刷されたバニラビーンズの箱を、穂波はしばらくじっと見つめていた。やがて、箱から黒く乾燥した細長い莢を取りだすと、大きな皿の上に載せてペティナイフで三等分した。莢にナイフを入れ、しごいて種を取りだす。赤銅の鍋に莢と種を入れ、ピッチャーの牛乳を注いだ。
彦乃は穂波がすることを見ながら――清潔な細く長い指先を見ているだけで、うっとりした――自分はティーカップの上で卵を割っては、卵黄だけを別の鍋に入れていた。そこへ砂糖も加える。ふつうに使われている砂糖とはちがって、さらさらしている。これも輸入もののようだった。
穂波は鍋を竈の天板に載せ、木べらでかきまぜはじめた。早くも、バニラの甘い香りがふわりと漂う。
「温めすぎないようにしないとね」
穂波が言う。
彦乃は卵黄と砂糖を泡立て器で丁寧に混ぜた。
不意打ちのように、あの表紙絵が脳裏をよぎった。『美味しい戀の春夏秋冬』の表紙絵が。泡立て器を手にしたみさ緒さま……。彦乃は動揺した。穂波さまが記憶を取り戻したとして、真っ先に思い出されるのが、みさ緒さまと暮らした日々のあれこれだったとしたら……?
「ヒコノ?」
穂波に声をかけられ、彦乃は我にかえった。
穂波は温めたバニラビーンズ入りの牛乳を、網杓子にくぐらせて、彦乃の手元の鍋に注ぎ入れた。
「カスタードミルクのできあがりだ」
そう言って、穂波は今度はカスタードミルクの鍋を竈の天板に載せた。ゆっくりゆっくり木べらでまぜあわせていく。
その鍋に、彦乃はデザートスプーンで壺から掬った薄力粉を、少しずつ入れていった。鍋の中身にとろみがついてくる。――粉の入れ過ぎは禁物だ。
「ちょうどいいところで教えてください。私は分量がよくわからなくて」
粉がスプーン三杯ほど入ったところで、穂波が「ストップ」と言った。カスタードクリームの鍋が、大理石の調理台の上に置かれる。鍋をかきまぜる穂波の手は止まっていない。
キッチンのなかが暑すぎる、と彦乃は感じた。
空気が熱すぎる。
香りが甘すぎる。
なぜか涙があふれる。
震える声で、穂波が自分の名を呼んでくれたような気がした。
◇
霧が晴れた、と穂波は感じた。同時に、過去の記憶のすべてが、脳内に一気にあふれてきた。すべてが繋がり、意味を持ちはじめる。体が震えた。
「彦乃……!」
震えながら、穂波は彦乃の顔を両手で包んでいた。
彦乃はこの自分であり、自分は彦乃なのだ。胸のうちでそうつぶやきながら、柔らかい唇に自分の唇を重ねていた。貪った。強く吸った。幾度も。幾度も。
はあ、と息を吐いて、穂波は笑った。
今度はゆっくりと、彦乃の唇を啄んだ。幾度も。幾度も。――耳たぶを甘噛みした。彦乃がため息をもらす。
穂波は体の芯が熱を帯びてくるのを感じていた。熱い。痛い。彦乃を強く抱きしめた。髪を乱暴に愛撫した。
「雪がうさぎを追いかけていって、うさぎがきみの膝に飛び乗った」
「穂波さま――」
「うん。憶えているんだ。忘れやしない。雪は?」
「元気でいます。今日はバイオリンのお稽古に出かけていて」
◇
俺のコーヒーの出る幕がないじゃないか!
まあ……よし、としよう。
姿隠しの術を纏ったまま、悪魔は笑っていた。
今日は最高にいいことがあった。リクショーの車夫に、あと百回くらいチップをやってもいい。五十銭銀貨をはずんでやってもいい!
斎門は居間へ戻り、姿隠しの術を解いて、キッチンへ戻った。俺も面倒なことをしているな。
◇
わざとらしい咳払いが聞こえた。
穂波は彦乃から顔を離した。
「斎門」
彦乃が穂波から体を離した。
「こいつに遠慮する必要はない」
穂波は彦乃の手を放さずにいる。
「穂波坊ちゃま、ご機嫌はいかがでありましょうか」
「止せ。坊ちゃまなんて呼ぶな。気色悪い」
言いながら、穂波は自分の口元が緩んでくるのに気づく。しぜんに笑みがこぼれてしまうのだった。
斎門が指を鳴らした。竈の扉が開いた。いくつもの丸いパンが宙を飛んで、調理台の上のバスケットに納まる。
「まあ!」
彦乃の顔が輝いた。
斎門はふたたび指を鳴らし、口金付きの搾り袋も用意した。
「これでパンにクリームを詰めるんだろう?」
そのとき、居間の箱時計が、一つ、鳴った。
「三時半だ」
斎門が言った。
「雪ちゃんが帰ってきます。急がないと」
彦乃が穂波を見上げた。
「斎門。パンを雪の土産にしたい」
斎門の指がもう一度鳴った。鍋のカスタードクリームが、うまいぐあいに、焼きあがったばかりの丸いパンに詰められた。
「おまえ、私の言葉はすぐに理解するし、わりと気も利くんだな」
「そうさ。俺は気が利く。今ごろ気がついたのか」
「彦乃は明日もここへ来るんだ。いいね?」
「はい。もちろんです」
ふと、穂波は不安になった。記憶に欠落している部分がある。
「今日は……何月何日だ?」
斎門を見た。
「四月一日。土曜日」
「明綸三十六……三十七年、だな?」
「いや。明綸三十八年。一九〇五年だ」
穂波は言葉を失った。




