帰還―― バニラビーンズの記憶②
雪や古川満佐や通いの主婦たちに見られてはならない。斎門は姿隠しの術を纏って、彦乃のいる母屋の八畳間に降り立った。縁廊下で針仕事をしている彦乃と、衣紋竹に掛けられた見事な衣装の両方が、同時に目に入った。
彦乃に声をかける前に、斎門は衣装をじっくりとながめた。
白地の着物の身頃と袖に精緻な縫い取りがほどこされている。
穂、雪、彦の三文字を図案化して巴に組んだもの。四季の花々。カシオペア座、オリオン座、北斗七星。穂波と雪と彦乃、三人のそれぞれが誕生した季節の星座だろうか。稲穂、雪の結晶、青葉の図柄も縫い取られている。やはり三人のそれぞれを象徴していると思われた。使われている糸の色はさまざまで、刺し方も一様ではない。文字も絵柄も光と陰影の両者からなっている。斎門は賛嘆のため息をもらしていた。
「彦乃――」
いつぞやの夜のように、声をかけてから、斎門は姿隠しの術を解いた。
「斎門さま!」
縁廊下の彦乃が振り返った。その顔に安堵と喜びの色が一気に広がっていくのが、見てとれる。
「いつお目にかかれるのかと、心細い思いをしておりました」
「すまなかったな。――これは?」
斎門は衣紋竹の衣装のほうへ顔を向けた。
「私が婚礼のときに着た打掛です」
「仕上がっているのか? この見事な刺繍のことだが」
「ここで終わりにしてもいいんですけど、あといくつか紋様を足してみようかと――それより、穂波さまのことをお聞かせください」
「穂波はだいぶしっかりしてきた。六時間くらい起きていられるようになった。ただ――記憶を失っている。俺のこともわからない」
斎門は状況を説明した。
彦乃は真剣なまなざしでいる。涙は見せなかった。
「雪は?」
「出かけています。バイオリンのお稽古です」
「満佐殿やほかの二人は?」
「お満佐さんは麻布の甥御さんのお宅へ遊びに行かれました。おタキさんとおセツさんは、土曜の午後と日曜日はお休みです」
「雪は誰が迎えにいくんだ?」
「コンダー先生のお宅の書生さんが送ってきてくれます」
「何時に帰ってくる?」
「四時ごろ」
「では、急ごう」
「はい」
◇
寝室にミス・ブラウンとミス・アップルトンの姿がない。彦乃は斎門をふりかえった。
「二人には辞めてもらった」
と斎門が言う。
「もうここに詰めてもらう必要もないと思って。記憶のほうはともかくとして、穂波の状態は安定してきた」
彦乃はベッドに近づいた。
穂波は眠っていた。一目で、肌も髪も清潔だとわかる。清々しい、という言葉しか思いつかない。彦乃は胸がいっぱいになった。あの二人のベテランのおかげ、と思った。二人がエプロンにつけていたナイチンゲール勲章は、確かに、責任を自覚した仕事人の証なのだ、と賞賛せずにはいられない。ミス・ブラウン、ミス・アップルトン、感謝してもしきれません。
穂波は二枚の浴衣のうちの一枚を着て、麻の葉紋様の背守りをほどこしたもう一枚を、上掛けのよう身に纏っている。彦乃は麻の葉の上にそっと手を置いた。
穂波の両目が開いた。
表情がすっきりしている。
「眠れる王子が目覚めたぞ」
斎門がうわずった声を出した。
彦乃は、体が床から浮き上がった、と感じた。
◇
ヒコノが泣き笑いの顔でいる。
そうだ……目の前にいるのは、ヒコノだ。それは、わかる。はっきりとわかる。――だが、ヒコノと自分はどういう関係にあるのだろう? 穂波は悔しかった。頭のなかがすっきりしないのが、いまいましい。
「穂波さま……」
ヒコノの顔が近づいた。
竈の暖気……? 甘い香り……? 指先のクリーム?
意味のわからない記憶の断片が穂波の心を揺さぶった。
「ヒコノ」
思わず、名前を呼んでいた。
「彦乃がわかるんだな?」
ヒコノの背後に立つ、えらくハンサムな大男が言った。この大男と自分の関係も、わからない。
「わかりますよ、もちろん。私のヒコノです」
この状況は変だ、と穂波は思った。なぜ自分だけベッドに横たわっている? 気分が悪いわけでもないのに。
穂波はベッドから下りた。浴衣の前がはだけた。帯を締めていないのだ。穂波は慌てて前をかきあわせた。
「王子の本格的なお目覚めだな」
大男がおどけた口調で言った。喜色満面でいる。
「居間へ行こう。――いや、キッチンだ」
帯が要る、と穂波が思ったそのとき、
「斎門さま、浴衣の帯をお願いします」
ヒコノが言ってくれた。
大男が右の人差し指を振るようにちょっと動かした。次の瞬間、大男が帯を穂波に差しだしていた。――驚いて、穂波は後ずさった。
「手品だ」
大男が笑った。
穂波は帯を受け取り、きちんと締めた。今のは本当に手品だったか……?
◇
斎門は穂波と彦乃をキッチンへ案内した。すでに考えがある。カスタードクリームをこしらえるのに必要な材料は、調理テーブルの上に、すべてそろえてある。マダガスカル産のバニラビーンズは、もちろん、忘れていない。
「ここで……何を?」
穂波が途惑ったようすでいる。
「カスタードクリームを詰めたパン。彦乃といっしょにこしらえてくれ」
「でも、斎門さま、パンはすぐには焼きあがりません。パン種を発酵させたりしなければなりませんし」
彦乃は、バスケットに盛られた卵を、宝石でもながめるような目で見ている。バスケットは細い銅線を雌鶏形に編んだものだ。
「うん? そうか。ならば、パンは俺が引き受ける。ちょちょいと、な」
斎門は彦乃に片目をつぶってみせた。
彦乃は微笑んで、うなずいた。
「俺は居間でゆっくりしている。新聞に目を通したい」
斎門はその場を離れた――居間で姿隠しの術を纏い、キッチンにとってかえす。何が起きるんだ? わくわくするじゃないか、え?




