スキキライスキ
ロカたちは主の島へと到着した。
それまで、ディンセントの前には何もない夜空が広がるばかりだったのだが、主の島の空間へと入るとたちまちに花と緑が豊かな島の全貌が目に飛び込んできた。
一般的には見えないような結界でもあるのだろうか。ふと、ディンセントはヨロイクジラの王のことを思い出していた。
ロカにハイエフを下ろしてもらって、ようやくディンセントは地に足をつけることができた。足下の逞しい草からは、踏まれても跳ね返すような感覚を受ける。緑の匂いが強い。少し甘い匂いは花からだろうか。強い匂いでも不思議と気分が悪くなるものではなかった。
ロカはカマラドの力を収める。青白い翼が粒子を散らすように掻き消えると、銀色の髪が元の淡い金髪へと戻った。髪は伸びたままだ。ディンセントはぼんやりとそれを眺めていた。
「こっちこっちー」
主が歩き出す。ロカとディンセントは後に続いた。ディンセントはもちろん、ハイエフを押して。
発光する小さな虫のソラニルが飛来し、一行の周囲を照らす。
主の帰還は感覚で分かるらしく、どこからともなくソラニルたちが集まってきた。ディンセントにとっては異様な光景だが、ロカは楽しそうに肩や頭に乗ってきたソラニルと遊んでいる。
「……?」
ディンセントはふいにハイエフを見下ろす。長い耳を垂らしてふわふわとした太い尾を持つ小さなげっ歯類のようなソラニルがいつの間にかシートに座り、彼を見上げていたのだった。
「……っ」
思わず押し黙るディンセントだったが、首を傾げて見上げてくるソラニルの無垢な目に見つめられ、やがて肩の力を抜いた。
「……落ちるなよ」
ディンセントの足元では、同じ種類のソラニルが数匹、じゃれ合いながら走っていた。
「あ、おいっ、ハイエフに巻き込まれんじゃねぇぞっ」
その言葉に、一瞬ぴたりと動きを止めたソラニルたちは、各々ぱらぱらと動き始めるとハイエフによじ登り、シートやハンドルに掴まり始めた。中にはハンドルを握るディンセントの手を伝い、彼の頭の上に陣取る豪胆な者もいた。
「あー、もうっ、落ちるなよっ?」
苦い顔のディンセントは真剣に周囲のソラニルたちに警告し、彼を見るロカは嬉しそうに微笑む。
その様子を横目で見ていた主の口角が一瞬上がった。
「はい、ここー」
突然、開けた場所に出た。目の前にはとても大きく立派な木が一本ずっしりと根を下ろしている。枝は屋根のように目一杯伸び、青々とした葉に抱かれているように感じる。
「きれい……」
風に乗ったロカの呟きがディンセントに届く。
夜だというのに、その葉は微かに発光しているかのような優しい色をしていた。
いつの間にかたくさんのソラニルを引き連れた形になっていたロカとディンセントだったが、この広場に入る辺りでソラニルたちはあちらこちらへと去っていった。
ロカとディンセントが大樹の幹の下までやってきたタイミングで、ディンセントの背丈の倍はある大型の熊のようなソラニルが木の影からのそりと現れた。もふもふとした毛皮の逞しい腕や足の一部には硬い鱗が見える。
大きなソラニルは無言でロカとディンセントの傍に寄ると、小脇に挟んでいたシートをふわっと空中に浮かせながら敷き、二人に座るように促す。毛足の長いふわふわしたシートに座した二人へと流れるような動作でお盆に載せたグラスを差し出すとボトルを手に持ち、深い紫色の飲み物を注いだ。
ロカは礼を言ったが、ディンセントはどこぞのソムリエのようなソラニルの動作に口を開けたまま固まっていた。
「そのグレープジュースはおいしいんだよーって、あ、オレも飲んだ方がいいかぁ」
そう言った主の体が突如淡く光り出し、その青い光は形を変える。
収まった光の後には、人間がいた。裾が少し肩にかかる乱雑な黒髪を掻き分け、ロカとディンセントの驚いた顔を見てニヤリと笑う赤い瞳の男性だった。
「んふー、力のあるソラニルは人間の格好になれるんだよー」
白いシャツの襟元を緩め、どこかの軍に所属しているかのような黒のロングコートを肩にかけた姿の背の高い主はシートに座ると、大きなソラニルからグレープジュースを注がれたグラスを受け取る。
「まずは毒味ってね」
そう告げるとグレープジュースを一口飲んだ。
「ほら、飲んでも大丈夫だよー。では、改めて、カンパーイ」
促されるままに三人でグラスを持ち上げ、口を付ける。ソラニルがグラスを持ってくるわ、人間に変身するわ、ディンセントは半ばヤケになりながらグレープジュースを飲み込んだ。濃厚だが後味がスッキリとしていて、思わず呟く。
「うまい……」
「ふふん、でしょー?」
「いや、でも、こんな所にシートやグラスやジュースがあるなんて」
ディンセントは辺りを見渡して草花を確認し、天を仰いだ。頭上からはさやさやと心地良い葉のささやきが聞こえてくる。
「……常備、してる」
唐突に大きなソラニルが喋った。
「……いつ、人が来てもいいように、主、常備してる」
「だーっ、おい! そんなこと言うなよぉ、恥ずかしい」
主は照れ隠しなのか苦い顔でソラニルを見上げた。ディンセントはぽかんとする。このソラニルは、先ほど、人間のことを大好きだったと過去形で言わなかったか。
ディンセントの視線の意図に気付いた主は、ムニャムニャと口を動かすと降参したように肩を竦めた。
「あー、まぁ、そのさぁ……別に、人間が遊びに来るのを拒んでるわけじゃないしさぁ」
新鮮なジュースを常備していることを考えると、むしろ、常に人間に遊びに来て欲しいと、カモン人間というスタンスなのではないだろうか。
「ここに来る人が減っているのね」
ロカの問いかけに、主は鼻から息を吐いた。
「そ。減ったというか、全滅って感じ。昔はさぁ、しょっちゅう色んな人間が遊びに来てここも賑やかだったんだけど、今じゃコハントルタ国王が年に一度顔を出すだけ。オレはのんびり話しながら飲みたいだけなのにさぁ、国王は国家行事の外交だと言わんばかりに背筋伸ばしてここに来るわけ。そんなの、つまんなくない? オレ、そういう今の人間、好きじゃないわー」
堰を切ったように主から愚痴がこぼれる。
好きじゃないと言いつつ、その言葉からにじむのは好きの匂い。ディンセントは直感した。主は、寂しいのだと。きっと本当は人間が好きなのだろうと。
この、むずむずとした何とも形容し難い感覚に襲われるのは、今までもあった。
ロカだ。
この、どうにかしてやりたいような、かと言ってどうにもできないようなもどかしい気持ちになるのは、願望と諦観の狭間で揺れ動く頼りなさを感じてしまうからだ。
ディンセントは口火を切った。
「それ、人間に言ったか?」
「ん、言ったよー。でも、島の主とそのような戯れなど畏れ多いとか何とか。慇懃無礼って言葉知ってるー? 無礼なんだよー?」
「嫌いにならないのか、人間を」
直球を投げるディンセントに、主は肩を竦めた。そして、少しだけ笑う。
「嫌いになれたら、楽なんだろうけどなぁ」
その赤い瞳が細くなる。諦めのつかない憂いの色をしているのは明らかだった。
ディンセントはふいに大きなソラニルに向き直ると、グレープジュースのボトルを渡すように手を差し出した。ボトルを受け取ったディンセントは、主へと注ぎ口を向ける。
「まあ、飲め」
「飲めって、これ、オレの所の飲み物、」
「いいから、まあ、飲め」
ディンセントは主のグラスにグレープジュースを注いでいく。増えるグラスの中身を見つめる彼は真剣な表情で告げた。
「お前の言う通り、人間ってのは忘れていく生き物で、少し時間が経っただけで周りは知らないことだらけになるんだよ。あることすらも知らないから、ないことになってしまう。でも、俺はもう知ったから、ここのことは死ぬまで忘れない、と思う」
ディンセントの言葉に、主だけではなくロカも驚いた。彼がそんなことを言うとは思ってもみなかったからだ。
少しの間の後、黙々とグレープジュースを飲むディンセントを見る主はグラスを揺らしながらにんまりと笑った。
「……これだからさぁ、人間って嫌いになれないんだよなぁ」
スキキライは表裏一体。




