真・ヨミゴエ1
雨は昨夜から降り続いていた。日が落ちるにかけてその勢いは増すばかりで、厚い雨の弾幕は止む気配がない。
アレスローヴェンの城の一角、ガラスに打ちつけて形を崩し流れていく水滴の向こう側を見つめる少女がいた。
この季節の雨は寒い。窓は閉め切ってあるが、ガラスに近付けた指先の体温が奪われていく。
少女は浮かない表情をしている。曇った空の先を見通すように仰ぎながら、胸の前で両手を握った。
この胸のざわつきは何だろう。
この雨が降り始めてから、ずっとだ。
体が、心が、急くようにずっと落ち着かない。
「暗い顔をしているねー」
呼びかけられた少女は、後ろで三つ編みに束ねたとても長い金の髪を揺らして振り返った。髪に飾られた白い一粒の大玉の蕾の花が揺れる。
そこには、顎のラインで切り揃えられた金の髪の少年の姿があった。少女の心を解すかのように、にっこりと笑む。
「何か、気になることでもあるのかい」
「……」
少女は再び窓の外を見上げる。黒い雲はまるで闇夜のようだった。
「あなたもきっと、分かってる……この雨は、何かおかしい」
「……」
「だって、こんなにも胸がドキドキしているもの」
「そうだね」
笑顔を納めた少年は、少女と同じように空を仰ぎ見た。
「だから、あなたは私を呼んだのでしょ?」
「そうだね」
これは、警告だ。少年は思った。
良くないことが起ころうとしている。
それこそ、良いことなんて今まであまりなかったような気がしなくもないけれど、そんなことが些細に感じるほどの未来からの警告。
「なのに、どうして私はまだ出られないの? そのために、私はいるのに」
「もう少し待ってほしいんだー。諸国の兵備がまだ整っていない」
表には出さないが、少年にも焦燥感はあった。今はひとまず落ち着いているように見える、このどうにもおかしい気配の空を先駆けて制しなければならないのに、このところの連戦で各国の騎士やソラリコやソラニルの消耗が激しいと報告が上がっており、出撃可能な数が足りない。
……消耗が激しい?
嘘ではないだろうが、大袈裟だと少年は感じていた。
どうにもならないほどのダメージを受けているはずはない。
いつもこの少女が強いヨミゴエと対峙しているのだ、後続がその他雑多のヨミを引き受けるだけで磨耗していてどうする。
単に力が弱いと言ってしまえばそれまでだが、大方、自国の損耗を抑えたいのが最優先なのだろう。ヨミの領域に近い国々では、自国の防衛に力を割きたいと思う。それに、他国と軋轢があろうとなかろうと、自国の兵力の低下は国際関係で不利益を被るかもしれない問題もあるのだろう。
分からなくはないが、馬鹿げている。
それこそ、この島が落ちてヨミを抑えられなくなれば、ヨミは他方面へと侵略の手を伸ばし、利益云々など言っていられる状況ではなくなる。
己の利ではなく、しがらみや枠を越え、騎士やソラリコ、ソラニルが手を取り合って対処しなければならないのだ。
アレスローヴェンはその中核を担うためにあるが、この島だけでは立ち向かえない。
どうして、それが分からない。
分かってくれない。
「……私、行くわ」
少女の声に、少年は目を見開く。
「無茶だ。キミの力は知っている。だけど、今の空は不確定要素が多過ぎる。それに、今は他のカマラドが国事で帰郷していて手が足りない」
「でも、このまま時が過ぎるのも怖いの」
シャランと、金属の擦れ合う音色が響く。
少女は、シフォン生地の白いドレスの上に金銀で細工を施された甲冑を身に纏っていた。動作を抑制する金属の使用をギリギリまで抑えた防具は、頼りなさを感じる。装甲を削いでまでそうする理由は、ヤタを阻害してはならないことと速度優先の彼女の戦い方にあった。
踵を返した少女は、部屋の反対側を目指して歩き出した。彼女が横切るのは天井の高い部屋で、中央の円卓には空図や書類が敷き詰められている。
会議室か何かと見紛うような広さだが個人の執務室らしく、本棚が並び、羅針盤や図を描く道具が置いてあった。円形に近いこの部屋は天井まであるはめ殺しの窓で囲まれており、一角には庭があるのか窓の外に緑が見える。
その中の一つ、部屋の中央北側に置いてある執務机の背後の窓は開閉が可能で、少女はそこに向かっていた。
少女の歩く姿を見ながら、少年は溜め息を吐く。彼女は一度決めたことをなかなか譲らない頑固者であることは知っているので、それよりも、ままならない現状についての憂いの方が溜め息の比率を占めていた。
部屋の中が雨で水浸しになるのも構わず、少女は窓を開けようと手をかけた。
「待って」
少年は少女に近付く。
「まったく、キミはー」
やれやれと言った感じで微笑むと、少年は手のひらを少女に向けて交差させ祈る。透明な膜が少女を取り囲んで一瞬光ると消えた。精錬された防衛術式は透明度が増し、視界や動作を遮らない。
「雨に濡れると風邪をひくよ」
「ありがとう」
もちろん、雨避けのためだけではない。少女は嬉しそうに笑うと、窓を開けた。彼女の見えない防壁と窓枠に弾かれた雨の雫が床を濡らしていく。机上の書類がばたつくことはない。風が凪いでいるのも、少し薄気味悪かった。
「じゃ、見てくるわ」
少年へと振り返っていた少女の足元から青白い光の粒子があふれると共に、手首足首に同色の光の翼が生える。彼女の髪の毛先がざわつき、流れ落ちるように髪が銀色に変わる。その流れに乗って、髪で揺れていた花が光を帯び、下を向いた丸い蕾から光の粒子がこぼれ落ちては消えていく。
何度見ても綺麗な光景だと、少年は微笑んだ。
カマラドは夜空を渡ることができる。ソラニルと同じように昼夜を問わない。昼は金色の光を、夜は銀のような青白い光をまとう。そして、夜空を駆けるときには髪が伸び、色も変わる。ソラリコやカマラドは力の源である太陽の力を髪の毛から調達しているらしく、夜は太陽の力が弱いため、カマラドは髪の毛を伸ばして調達量を確保しているのではと研究者の間で真偽が問われているが、少年にとってそんなことはどうでもよかった。
「気を付けて」
言葉の主に少女はにこりと微笑む。軽やかに跳ねて少し行儀悪く窓の縁に足をかけると、膝下丈のスカートが柔らかく翻る。ぐっと足先に力を込めて蹴り出すと、そこにはもう彼女の姿はなかった。
部屋には雨音だけが響く。絨毯を濡らす雨など眼中になく、消えていく光の余韻を見つめる少年の瞳が細くなった。
本来ならば、彼女の隣にソラニルがいるはずだった。傍で彼女を護り、共に戦う相棒が。
だが、いない。正確には、行方不明だという。
彼女の力が消えていないところを見ると、そのソラニルはどこかで生きてはいるのだろう。
互いに引き合い相棒となったのに、一緒にいられない。
喪失にも似た虚無の感覚。
少年は唇を噛んだ。
「エデュケウス」
「は」
どこから姿を現したのか、そもそも、最初からこの部屋にいたのか、いつの間にか少年の背後に背の高い執事らしき男性が控えていた。
「各国に出撃を要請する」
エデュケウスと呼ばれた執事は静かに頷くと、両手を差し出す。手の中には拳三つ分ほどのサイズの結晶が淡く光っていた。少年が結晶に触れるか触れないかの位置で撫でる仕草をすると、鼓動するように点滅し始めた。相手方にも同じものが置いてあり、互いに遠く離れていても音声を届けられる希少な結晶だった。
「そうだな……今度は語気を少し強めてみようか」
この不気味な雨の中、少女は単身で調査に向かった。
何もなければよいが、何もないわけがないと心が騒ぐ。後詰めがなければ、少女もこの島さえも危うい。
それが分かっているのか。
少年は口元を歪めて微笑んだ。
甲冑とドレスのハイブリッドな服を身にまとう乙女はたまらんです。




