手を出すな
ぐうの音も出ないとはこのことだろうか。ロカの傍若無人なまでの行いを叱責したいはずなのだが、時折垣間見える理解不能な彼女の雰囲気に呼び起こされる、あの脊髄に雷が走るような形容し難い感覚がディンセントの喉まで痺れさせ、言葉を生成できなくさせるのだった。
そんな中、刻一刻と客船への距離は近付いていく。
「ごめんね」
ハイエフと風切り音が響く空間で、もう一度ロカの謝る声が隙間から差し込まれる。
「……」
何と答えていいものか。彼女の対応を鑑みるに謝罪が適当といえばそうなのかもしれないが、かと言ってそれが本当に妥当なのかは一概に肯定できるものでもなかった。
とにかく、済んでしまったことはひとまず置いておくしかない。
ディンセントは眼前の客船を睨む。近付くと考えていた以上にとてつもなく巨大なサイズで、ハイクラスの世界旅行に使用されているような威厳さえ漂う。
ロカは船を止めると言っていたが、何か考えがあるのか。
「ありがとう」
ふいに、背中にロカの額が押し当てられたのが分かり、ディンセントは反射的にすっと背筋が伸びる。
「ここでもういいわ。ディンセントは巻き込まれないように離れていて」
出し抜けに背後から声が聞こえたかと思うと、背中に触れていた温もりが消失する。軽くなったハイエフのスピードが微かに上がり、ぎょっとしたディンセントは左へハンドルを切ると旋回させながら急停止する。
ロカは一人、船との主線上に立っていた。少し離れた場所で、クゥムーは落ち着かない様子で飛び回っている。
一瞬にして蚊帳の外へと放り出されたディンセントは、硬く閉じた歯の間から息を吐き出す。
彼女から目が離せない。
客船はそこまで迫ってきている。
ロカの鼻が、世界のにおいを嗅ぐ。
ヨロイクジラの王のにおいでほとんど鼻が効かないが、微かに客船の方から甘く鼻孔に染み着くような独特な匂いがする。船内で異常が発生しているのは確かだろう。だが、それ以外に気になるところは感じない。多分、異常の発生源ももういない。
そう考えたロカは天を見上げると、悠々とそこに鎮座してこちらを睨んでいるようにも見える巨体のソラニルへと叫んだ。
「ヨロイクジラの王よ! この船は私が対処します。あなたが手を出す必要はありません!」
途端に、ロカの手首から金色の揺らめく翼が勢いよく羽を広げた。大気中に過剰になるほどの光の粒子をその全身から解き放つ。ロカの周囲は風が強く吹いているのか、彼女の髪の毛が乱雑に散る。
客船の飛行音が耳に突き刺さった。
「ロカ!!」
ハイエフのすぐ先を客船が通過し、風圧で体勢が崩れる。防御のために覆った腕の隙間からロカの姿を凝視する。光に守られているようにも見える彼女は、両手を前に突き出して構えた。
止めるって、物理的に止めるのかよっ!?
ディンセントが目を見開いた瞬間、客船はロカのいた場所を難なく通過した。轢かれたと瞬時に判断したディンセントは、ハイエフをフルスロットルでスタートさせる。船底を覗いて進むが、ロカは見当たらない。客船に追い付くと、そこには船の先端をがっちりと掴み、まるで船を支えているかのような姿勢で後方へと押し下がっているロカがいた。彼女の足元の波紋が散り散りに描かれながらも、彼女の表情は真剣さ以外の、例えば苦痛や恐怖といった類いの色は確認できない。
ディンセントは気付いた。
ロカが後退しているのは、徐々に客船を減速させていくためだからだと。力負けしているのではなく、単に急停止が船内への甚大なる被害に繋がることを恐れての対策だったのだ。現に、客船は緩やかにその速度を落としてきている。見たところ、客船の浮力に不具合はなさそうなので、このまま止まれば牽引船を待つことができるだろう。
無事、客船を停止させたロカは天を仰ぐ。
ヨロイクジラの王はしばらく眼下を眺めている様子だったが、ふいに軽く身をよじると天高く昇っていく。王の体が透明になっていくと共に、この空を制していた圧力が消えていった。
ディンセントは、ほっとしてハイエフに深く体重をかける。ロカは船先に手を当てたまま、客船の様子を伺っているようだ。
肩の力が抜けた半面、ディンセントには、どこにでもいる少女の姿をした未知の生体に遭ったかのような畏怖の気持ちと、微かだが奇妙な高揚感が生まれていた。
少女(物理)って何かいい。




