宮田 ユウスケ
大きく息を吸い込む。
肺一杯に入った空気を、ゆっくりと鼻から吐き出す。
それを全部で三回繰り返す。
二回目、三回目と進むにつれて、そのスピードを遅くしていく。
最後の空気は肺の中身を少しも残さないように全て吐き出す。
そして、精神が安定したところで、イメージを膨らませる。
ここは、どういう場所か。
俺は、どういう人間か。
今は、どういう状況か。
そのイメージを全身に浸透させていく。
頭のテッペンからつま先まで。
毛細血管から細胞の一つ一つまで。
これが、役に入りきる為の俺のルーティンだ。
ここは、マンションの一室。劇団の実践練習中だ。
今日の役柄は、株で大損して借金しても足りず、会社の金に手を付けた事がバレて、親に資金援助を頼むという役だ。
役の名前は英雄。この役の人物は、一昨年、有名大学を卒業し、有名企業に就職した新人サラリーマン。学生時代はスポーツ万能。勉強も出来た。見た目も良かったから、普通にモテた。有名進学校を卒業し、有名大学には一発で合格。現在は一人暮らし。
両親は健在で、北関東に住んでいる。兄が一人いる。その兄は、しばらく引きこもり生活をしていたが、数年前に就職を機に家を出ている。
今の俺の中には、この人格がすでに入っている。あとは他の劇団メンバーの準備が整い次第、実戦練習に入る予定だ。
この場には、あと二人の劇団員がいる。どちらも三十代後半の男性で、俺からすると大先輩にあたる。一人は会社の上司役。もう一人は弁護士役。
この後、俺が両親役に電話で事情を説明し、お金の工面を依頼する。その後に上司役が事情の信憑性を持たせ、弁護士役が決定的に追い込む。
俺がやるのは、最初の取っ掛かりだけで、とりあえず両親役に本物の息子だと思わせることが出来れば合格だ。後は先輩に任せておけば大丈夫だ。
もう少し時間がありそうだから、役作りをさらに進める事にする。今日は稽古ではなく、実戦だから念には念を入れた方が良い。
この英雄という奴、相当、困っている筈だから泣いている方が相応しいだろう。
ただ、演技をする上で、泣くという演技は中々難しいものだ。涙を流せば良いってものではない。感情の入っていない涙では感動は生まれない。
俺の場合は、過去の体験を思い出し、本気の涙を流すようにしている。今回もその方法でいくつもりだが、その思い出す過去の体験っていうのは、実はもう決めている。
あれは半年くらい前。バイト先の先輩に誘われて、とある場所に連れていかれた。そこは、外観は普通のマンションで、一般の家族が普通に住んでいた。8階か9階立てで、結構でかいなって印象を受けた。
先輩は、そのマンションの最上階の角部屋の前で立ち止まり、インターフォンを押して、しばらくその場で待っていた。先輩は黙っているし、やることもないので周りを見回してみると、なぜか、その部屋の扉の上の天井には監視カメラがついていた。インターフォンから声がして、中の人との合言葉なのか、意味の繋がらないやり取りをすると、鍵が開いて中に通された。
部屋に入ってみると、普通のマンションの一室っていう感じだったけど、角部屋だからか何となく広く感じた。余計な家具なんかが無かったからかも知れない。ただ、他の部屋と決定的に違うところがあった。
その部屋はカジノになっていた。後でわかったことだけど、ルーレットやブラックジャックのテーブルがあって、壁際にはスロットの台が三台ほどあった。何人かの金持ちそうな男女が酒を片手にテーブルを囲んでいた。
先輩は慣れた様子で、所持金をチップに交換してきた。俺はカジノなんて初めて来たから、とりあえず、先輩のやり方を見せてもらうことにした。
丸を半分に切ったような変な形のテーブルの直線部分に、女性が立っている。白いワイシャツに黒のベスト、黒のパンツスーツという格好だ。髪は栗色のロングで、毛先が緩くカールしている。特に束ねてもいない。前髪は眉毛の辺りで切り揃えられている。痩せているからか、背は高く見えた。小さい顔には大きな目と小さい口、どこか猫を連想させた。一言で言ってしまえば、美人だ。どこかで見たことがあるような気がしたが、美人ていうのは、みんな同じような感じだから、他人の空似かなと特に気にはしなかった。
先輩は、自然にテーブルに着き、ゲームを始めた。
何回か先輩がやっているのを見ていると、なんとなく解ってきた。猫美人より数字が大きければ勝ちのようだ。これなら俺にも出来る。
先輩がテーブルを離れたタイミングを見計らって、チップの交換を教えてもらおうと思ったが、財布の中身がほとんど無かったことに気が付いた。先輩にそのことを伝えると、
「心配するな。ついてこい」
と、部屋の隅の方の、パーテーションで区切られた小さなスペースで、お金を借りられることを教えてもらった。
俺も、早速やってみることにした。
その前に・・・。
いつものルーティンを行う。今回の役柄は、天才ギャンブラーだ。
百戦錬磨のギャンブラーは、あらゆるギャンブルにおいて勝ち方を熟知している。その経験や自信を俺の中に染み込ませていく。
役が入った所で、ゲームに参加する。もう、負ける気がしない。
実際、小さな負けはあっても、総合的には勝っていて資金も順調に増えていった。
しばらくすると先輩は、
「先に帰るぞ」
と、言って出て行った。俺が勝っているのが、気に入らなかったのかな。まあ、気にしないでゲームを続けることにする。
ギャンブルが、こんなにも簡単なものだったとは知らなかった。続ければ続けるほど、稼ぐことが出来る。
資金も増えてきたことで、掛け金も増やすことにした。負けることは無いから、問題ない。
昔、海外の本場のカジノでは、一人の天才によって、カジノが潰されたことがあったって聞いた事がある。
今日、また一つのカジノが無くなる事になりそうだ。俺という天才によって。
作戦はこうだ。ある程度の資金が溜まった所で、パーテーションのスペースに行って、上限いっぱいのお金を借りる。そして、最後の勝負で集まった金を全部、一気に賭ける。その勝負で、このカジノを潰す。
その時はやってきた。
もうすでに上限いっぱいの金は借りてある。俺の前には大量のチップが山積みになっている。これを賭けて最後の勝負に出る。あまりに大金だから、ちょっと弱気になるが、大丈夫だ。俺は天才ギャンブラーだからだ。さあ、いくぞ。
すべてを賭けた大勝負の結果は・・・
負けた・・・。
何が起こったのか、すぐには解らなかった。
全財産が無くなった?
天才ギャンブラーが負ける?
意味が解らなかった。
俺の前の大量のチップが回収される。
もう、それからは記憶が飛んだ。
『メゾン・ド・コント・ド・フェ』
俺の住んでいるアパートの名前。
このあたりの中では目立つ建物だから普段なら間違えないけれど、その時はどうやって帰ってきたのか、さっぱり覚えていない。
俺の部屋は一階だから、階段を踏み外して転落するなんてことはなかったけど、帰ってきて何をしたのかわからない。隣の部屋の女に何か悪さをしていないか心配だ。
次の日、朝、起きてテーブルの上に一枚の紙が乗っているのを見て、現実を知った。
その紙には、俺が借りた金額が記入されていた。腰が抜けるほどの額だった。
この出来事を思い出す度、俺は感情の入った涙を自然と流せるようになった。
さあ、いつでも演技に入れるぜ。




