第9話
銀嶺の雪国を後にしてから、いくつもの街を巡り歩いた末、メルティがたどり着いたのは、大陸最大の賑わいを誇る王都だった。
高くそびえる城壁、石畳の大通りに立ち並ぶ煌びやかな店々。行き交う人々の服装も、これまでの街とは一線を画す洗練さがあった。
「……人がいっぱい」
メルティは物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回しながら、露店の呼び込みや馬車の音に賑わう大通りを歩いていく。しばらく彷徨った末、路地の奥にひっそりと佇む、いかにも訳ありな雰囲気の隠れ家風の店を見つけた。
重厚な木の扉を開けると、落ち着いた照明と、上品な調度品が出迎える。カウンターの奥には、ワインボトルがずらりと並ぶ棚があり、店内には静かなジャズにも似た演奏が流れていた。
「いらっしゃいませ」
物腰の柔らかい支配人らしき男が、恭しく頭を下げる。メルティは迷わずカウンター席に腰かけた。
「一番美味しいお肉と、それに合うお酒をください」
支配人は少し驚いた様子を見せたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「かしこまりました。それでは、本日仕入れたばかりの『王都風ローストビーフの特製赤ワインソース和え』と、当店自慢の熟成赤ワインをご用意いたします」
*
ほどなくして、上品な白い皿に美しく盛り付けられた一皿が運ばれてきた。
薄くスライスされたローストビーフが、花びらのように皿の上で重なり合っている。中心はほんのりとしたロゼ色を保ち、断面からはじんわりと肉汁が滲んでいた。その上に、艶やかな赤ワインソースがとろりとかけられ、香草の緑が彩りを添えている。
「わぁ……綺麗……」
立ち昇る香りは、これまでの豪快な料理とは違う、繊細で奥深い匂いだった。赤ワインの芳醇な香りと、じっくり煮詰められたソースの甘やかな匂いが、上品に鼻先をくすぐる。
続けて、グラスにゆっくりと注がれる深い紅色のワイン。グラスを傾けるたびに、脚に伝う「涙」がとろりと美しく流れ落ちた。
メルティはまず、フォークでローストビーフをひとくち。
「――んんっ……!」
やわらかな肉の繊維が、噛んだ瞬間にほろりとほどけていく。じゅわりと溢れる肉汁に、赤ワインソースのコクと甘みが絡みつき、口の中で複雑な旨味の層を作り出していく。
「お肉、とろける……! ソースが濃厚なのに、しつこくない……!」
うっとりと呟きながら、今度はワインをひとくち含んだ。
「……っ」
口の中に広がるのは、しっかりとしたタンニンの渋みと、その奥に潜む黒い果実のような芳醇な甘み。喉を通った後も、長く優雅な余韻が続いていく。
「渋いのに、なめらか……! お肉と合わせると、こんなに味が変わるんだ……!」
ローストビーフをひとくち、ワインをひとくち。交互に味わうたびに、肉の旨味とワインの深みが互いを高め合い、口の中でどんどん豊かな味わいへと変化していく。至福の表情でグラスを傾けるメルティの姿は、まるで絵画のように様になっていた。
「――ふふ、これは噂に違わぬ姿だな」
その時、店の扉が勢いよく開き、朗々とした声が響いた。
振り向くと、豪奢な金糸の刺繍が施されたマントを翻し、頭に小さな王冠を乗せた美丈夫が、部下を数人引き連れて堂々と立っていた。
男の視線が、ローストビーフを幸せそうに頬張るメルティへ向けられる。
その瞬間だけ。青い瞳が、ほんのわずかに揺れた。だが、それも一瞬のことだった。
男はすぐにいつもの自信に満ちた笑みを浮かべると、店内の視線を一身に集めながら、迷いなくメルティのもとへ歩いてきた。
「私は、この国の第一王子、アルベルト=フォン=ヴァルシュタイン。港町でならず者を単独で撃退し、温泉街の魔獣を打ち倒し、雪国では屈強な男たちを酒で沈めたという、噂の美姫メルティ嬢とお見受けする」
王子はつかつかと歩み寄ると、メルティのすぐ隣に立ち、芝居がかった仕草で片膝をつく。
「そなたほどの力と美貌を持つ女性、この私の妃となる以外に道はあるまい! さあ、私と共に、この王都で――」
「あの」
メルティは王子の言葉を、静かに遮った。
「お肉が冷めるので、退いてください」
「……は?」
王子の勢いが、ぴたりと止まった。
メルティはすでに王子の存在などなかったかのように、フォークでローストビーフをもうひとくち。ワインを傾け、うっとりと目を細める。
「んー、やっぱりこのソース、赤ワインとの相性が完璧……」
「い、いや、待て! 聞いているのか私の話を!?」
「聞いてます。でも、今はお肉に集中したいので」
あっさりとした返事に、王子は目を丸くしたまま固まった。後ろに控えていた部下たちも、主が完全に無視されるという前代未聞の光景に、ぎょっと顔を見合わせている。
「な、なんという女だ……! この私に見向きもせず、肉と酒に夢中になるとは……!」
王子は動揺しながらも、なんとか体裁を取り繕おうと咳払いをする。
「よ、よかろう! そなたのような気高い女性、私が城に招いて、最高の美食でもてなしてやろうではないか! さあ、私と共に――」
「あの、それより」
メルティは空になったグラスを、すっと支配人に差し出した。
「このワイン、お代わりできますか? あと、お肉ももう一皿」
「か、かしこまりました!」
支配人は主の困惑をよそに、嬉々として厨房へと向かっていく。
完全に蚊帳の外に置かれた王子は、しばし呆然と立ち尽くしていたが――やがて、その顔に、なぜか歓喜にも似た笑みが広がり始めた。
「……ふ、ふふ。面白い」
「この私に靡かないだと……? 王都中の女という女が、私に群がってくるというのに……!」
両手を広げ、芝居がかった動作で天を仰ぐ。
「この私にここまで冷たくあしらうとは、そなた、なかなか面白い女だ! ますます気に入ったぞ、メルティ嬢!」
周囲の視線を一身に集めながら高らかに笑う王子をよそに、メルティは運ばれてきた新しいローストビーフに、幸せそうに頬を緩ませていた。
「んー、美味しい」
二人の間に流れる、盛大な温度差だけが、静かな高級酒場の中に取り残されていた。




