第8話
ほどなくして、ぐつぐつと煮え立つ大きな土鍋が、湯気を纏ってカウンターに運ばれてきた。
「お待たせ、秘伝の海鮮薬膳鍋だ! 冷えた体には、これが一番効くぞ」
蓋を開けた瞬間、もわりと立ち昇る湯気とともに、複雑な香りが一気に押し寄せてくる。魚介の濃厚な出汁の匂いに、爽やかな薬草の香り、そしてぴりっとした生姜と唐辛子の刺激的なアクセントが混ざり合った、食欲をこれでもかと刺激する匂いだった。
鍋の中には、ぷりぷりとした白身魚や大ぶりの海老、貝類がぎっしりと敷き詰められ、赤や緑の薬草が彩りを添えている。
「わぁ……」
メルティはさっそくれんげを手に取り、まずはスープをひとくち。
「――んんっ!!」
思わず目を見開く。魚介の旨味がこれでもかと凝縮された濃厚なスープに、薬草のほろ苦さと爽やかさが奥行きを加え、生姜のぴりっとした熱がじんわりと喉から胃へと落ちていく。
「あったかい……! お腹の中から、じわーって……!」
続けて、ぷりっとした白身魚をひとくち。箸を入れただけでほろりとほぐれる身は、驚くほど繊細で、噛むたびにじゅわりと旨味が溢れ出す。海老も殻を剥いてかぶりつけば、ぷりぷりとした弾力とともに甘みが口いっぱいに広がった。
「海老、甘い……! お魚もふわふわ……! スープが染み込んで最高……!」
夢中でれんげとお椀を往復させるうちに、額にじわりと汗が滲んでくる。薬草と生姜の効果か、体の芯からぽかぽかと熱が広がり、外の凍てつく寒さなど、もうどこか遠い記憶のようだった。
「はふっ、はふっ……美味しい……! 汗、かいちゃう……!」
頬を紅潮させながら夢中で頬張るメルティの姿に、カウンターの端に座っていた大柄な猟師の男が、感心したように腕を組んだ。
「おいおい、嬢ちゃん。さっきから見てりゃ、あの生原酒も蟹も鍋も、全部ぺろりと平らげちまってるじゃねぇか。しかも顔色ひとつ変わってねぇときた」
男は太い腕をどん、とカウンターに置くと、にやりと挑戦的な笑みを浮かべた。
「嬢ちゃん、見た目に反してすげぇ酒豪だな! なあ、俺たちと飲み比べしてみねぇか?」
周囲の常連客たちも「おおっ!」と沸き立ち、次々と手を挙げていく。
「よし乗った! 俺も混ぜてくれ!」
「雪国の男の意地、見せてやらぁ!」
いつの間にか、猟師や漁師風の屈強な男たちが五、六人、カウンターの周りにずらりと勢揃いしていた。
メルティは薬膳鍋を頬張ったまま、こてんと首を傾げる。
「お酒の勝負、ですか?」
「そうだ! 一番最後まで潰れずに飲み続けた奴の勝ちだ! さあ、店主、樽ごと持ってきてくれ!」
店主が苦笑しながら大きな酒樽をカウンターに据えると、ずらりと並んだお猪口に、なみなみと酒が注がれていく。
「よぉし、いくぞ! ――かんぱーい!」
男たちの威勢のいい掛け声とともに、勝負の火蓋が切られた。
*
最初のうちは、店内は男たちの豪快な笑い声で溢れていた。
「はっはっは! 嬢ちゃん、無理すんなよ!」
「ぐいっと飲みっぷりだけは一丁前だなあ!」
しかし、五杯、十杯と杯を重ねるうちに、雲行きが怪しくなっていく。
「うっ……お、おかしいな……」
最初に音を上げたのは、一番体格の良かった猟師の男だった。カウンターに突っ伏すように上半身を崩し、ぐらりと椅子から傾いていく。
「お、おい、しっかりしろ!」
そう言って支えた漁師の男も、次の杯を空けたところで、ふらりと足元をよろめかせた。
「な、なんだこりゃ……視界が、回って……」
次々と男たちがカウンターや床に沈んでいく中、メルティだけは涼しい顔のまま、次々と杯を空にしていた。頬はほんのり赤くなっているものの、瞳はいつも通りとろりと幸せそうに輝いており、口調も足取りも一切揺らいでいない。
「あ、これ美味しいです。お代わりください」
空になった杯を差し出すメルティの姿に、まだ辛うじて意識を保っていた最後の一人――挑戦を仕掛けた張本人の猟師の男が、ガクガクと震える声を絞り出した。
「ば、化け物か……あんな小さい体の……どこに……」
ぐらり、と男の体が最後に大きく傾ぎ、どすん、と床に沈んだ。
カウンターの周囲には、屈強な男たちが折り重なるように倒れ伏していた。それはまるで、小さなドラゴンが暴れた後のボス部屋のような、なんとも珍妙な光景だった。
その中心で、メルティは杯を掲げ、にっこりと花のような笑顔を浮かべる。
「ふふ、お酒なら負けません♪」
店内は、しんと静まり返ったかと思うと、次の瞬間、爆発するような大歓声と拍手に包まれた。
「す、すげぇ! 嬢ちゃんの完全勝利だ!!」
「あの図体のいい連中が、まさか嬢ちゃん一人にこてんぱんにされるとはなぁ!」
店主も涙を流さんばかりに笑い転げ、倒れた男たちを一人ずつ介抱しながら、賑やかな笑い声が雪国の夜に響き渡っていった。
*
翌朝。
からりと晴れ渡った雪国の空の下、宿の前には見送りの人々が集まっていた。
「メルティちゃん、また来てくれよな!」
「今度は俺たちのリベンジマッチ、待ってるからな!」
昨夜すっかり酒に沈んだ猟師たちが、少し気まずそうに、それでも笑顔で手を振っている。メルティはくすくすと笑いながら、白い息を吐いた。
「うん、また来ます。蟹も鍋も原酒も、全部美味しかったから」
旅の荷物をしっかりと背負い、雪を踏みしめながら歩き出す。
振り返ると、まだ手を振り続ける雪国の人々の姿があった。もこもこの毛皮に顔を埋めながら、メルティも大きく手を振り返す。
――また来てくれよな。
さっきの言葉が、なぜか耳の奥に残っていた。
「……また、か」
小さく呟く。ただの別れの挨拶だ。それなのに、胸の奥がほんの少しだけ、むずがゆい。
けれど――嫌な感じはしなかった。むしろ、昨夜食べた熱い鍋のように、じんわりと温かい。
「……ふふ」
理由は、自分でもよく分からない。メルティは小さく笑うと、再び前を向いた。
次はどんな街で、どんな美味しいものに出会えるのだろう。そう考えれば、足取りはすぐに軽くなっていく。
美味しいお酒とご飯を求める旅は、まだまだ終わらない。
メルティの「酒場巡りの旅」は、こうしてまた新しい一歩を踏み出していくのだった。




