第63話
王家の紋章を掲げた飛空艇は、ゆっくりと空中庭園へ高度を下げていた。
「やっぱり、見たことあるんですよね……」
メルティが首を傾げながら見上げる。
だが次の瞬間。
――バチッ!
「……?」
飛空艇の船体から、紫色の火花が散った。
大きく傾く。
「おい……!」
シルヴァンの表情が変わった。
船の片翼は裂け、白い船体のあちこちには黒い焦げ跡が残っている。先ほどまで雲に隠れていたため分からなかったが、とても正常な状態ではなかった。
「墜ちるぞ!」
「――!」
飛空艇が急激に高度を落とす。
広場にいた住人たちが悲鳴を上げ、慌てて逃げ出した。
「メルティ!」
「はい!」
二人も走る。
――ズズンッ!
飛空艇は広場の端へ船底を擦りつけ、そのまま石畳を滑った。
積み荷が崩れ、船体が大きく軋む。
やがて。
――ドンッ!
最後に鈍い音を響かせ、ようやく止まった。
*
「中に人がいます!」
メルティは止まりきるのを待つと、すぐさま船内へ駆け込んだ。
「待て、メルティ!」
シルヴァンもあとを追う。
船内には負傷した兵士たちが倒れていた。幸い意識のある者も多く、街の衛兵や治療師たちが次々と救助へ入ってくる。
「こっちにも一人いる!」
声のした方へ向かう。
デッキの奥。
倒れた柱の傍らに、一人の男が横たわっていた。
「……!」
金を基調とした豪奢な鎧。
ただし今は泥と煤に汚れ、肩当てには大きな亀裂が入っている。
顔にも傷がある。
それでも。
「アルベルト様!?」
メルティはすぐに駆け寄った。
「知り合いか?」
「はい!」
アルベルトは意識を失っていた。
呼吸を確認する。
脈もある。
「生きてます!」
「まず外へ運ぶぞ」
「はい!」
*
飛空艇から救出された負傷者たちは、近くの建物へ運び込まれた。
街の治療師がアルベルトの傷を確認し、焦げた鎧を外していく。
「命に関わる傷ではありません」
「本当ですか?」
「ああ。ただ、かなり消耗している。魔力もほとんど残っていない」
「……よかった」
メルティが大きく息を吐いた。
眠ったモチを抱えたまま、シルヴァンが横からアルベルトを見る。
「……こいつが例の王子か」
「知ってるんですか?」
「旅の途中で、お前宛てに何度も荷物を送りつけてきた男だろう」
「送りつけてきたって」
「事実ではないか」
それはそうだった。
メルティはアルベルトへ視線を戻す。
「顔色悪いですね……」
「目を覚ましたら、何か温かいものを食べさせるといい」
「そうですね」
その言葉に、メルティは立ち上がった。
「作ってきます!」
「もう行くのか」
「こういう時こそ、ご飯です!」
「……お前らしいな」
*
借りた厨房で、メルティは小さな鍋を火にかけた。
使うのは、空中庭園で採れる根菜と白身肉。それに、長老からもらった写本に載っていた香草を、ほんの少し。
「これは入れすぎるな」
後ろからシルヴァンが言う。
「分かってますよ」
「本当か?」
「……見ててもらっていいですか?」
「最初からそうしろ」
シルヴァンが香草の量を確かめる。
メルティは具材を細かく切り、柔らかくなるまでじっくりと煮込んだ。
派手な料理ではない。
香辛料も控えめ。
ただ、弱った体でも食べられるように、温かく、優しい味になるよう仕上げる。
「……これなら大丈夫ですね」
「ああ」
湯気の立つ器を持って、二人はアルベルトのいる部屋へ戻った。
*
「……」
アルベルトの指先が僅かに動いた。
「アルベルト様?」
「……」
瞼がゆっくりと開く。
ぼやけた視界。
最初に見えたのは、誰かの顔だった。
「大丈夫ですか?」
「……メルティ……?」
「はい」
その声を聞いた瞬間。
アルベルトの張り詰めていた表情が、ほんの僅かに緩んだ。
「……そうか」
再び目を閉じる。
「よかった……」
「寝ないでください!」
「……分かっている」
弱々しいながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
「何か食べられそうですか?」
「……少しなら」
「じゃあ、これ」
メルティが器を差し出す。
「温かいスープです」
「君が……作ったのか?」
「はい」
アルベルトはゆっくり体を起こし、差し出されたスプーンから一口だけ口にした。
「……」
温かい。
優しい味。
弱った体へ、ゆっくり染み込んでいく。
その瞬間。
遠い記憶が、蘇った。
*
――十数年前。
まだ幼かったアルベルトは、冷たい地面の上で震えていた。
なぜ自分がここにいるのか。
この先どうなるのか。
幼い彼には、もうよく分からなかった。
覚えているのは、突然馬車から引きずり降ろされたこと。
知らない大人たち。
暗い森。
そして、ひどく寒かったことだけ。
「……」
声を出しても、誰も来ない。
遠くで獣の鳴き声が聞こえる。
もう駄目なのかもしれない。
子供ながらに、そんなことを考えていた。
その時だった。
暗闇の向こうに、小さな光が見えた。
「……?」
橙色の光。
焚き火だ。
アルベルトは残った力で、僅かに顔を上げた。
炎の向こう側。
一人の少女が座っている。
自分とそう変わらない年頃。
泥だらけの服。
擦り傷だらけの手足。
ぼさぼさになった髪。
後から知れば、過酷な修行の最中だったのだろう。
けれど。
その時のアルベルトには、そんなことなど分からなかった。
「んんっ……!」
少女は、焚き火で焼いた魚へかぶりついた。
「おいしい……!」
笑った。
本当に、幸せそうに。
目の前の焼き魚だけで、世界中の幸福を手に入れたかのような顔だった。
「……」
アルベルトは、呆然とその姿を見つめた。
こんな場所で。
こんなに汚れて。
傷まであるのに。
どうして、そんな顔で笑えるのだろう。
「あ」
少女がこちらに気づいた。
目が合う。
「起きた?」
「……」
「大丈夫?」
返事ができない。
すると少女は立ち上がり、こちらへ近づいてきた。
「お腹空いてます?」
「……」
それでも答えられないアルベルトを見て、少女は自分の手に持っていた焼き魚へ視線を落とす。
少し考えて。
「……」
一瞬だけ、ものすごく惜しそうな顔をした。
「……ふふ」
それを見て、アルベルトの口元が僅かに動いた。
「……半分こにしましょう」
少女は魚を分けた。
「はい」
差し出された半分を、アルベルトは震える手で受け取った。
まだ温かい。
一口。
「……」
塩すらろくに振られていない、ただ焼いただけの魚だった。
それなのに。
ひどく美味しかった。
「美味しい?」
少女が聞く。
アルベルトは小さく頷いた。
「よかった!」
また。
あの笑顔。
「私はメルティです」
「……アルベルト」
「アルベルト?」
「……うん」
「じゃあ、アルベルトも食べたら元気になりますよ!」
何の根拠もない。
けれど、その時のアルベルトには。
その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。
*
その後のことは、途切れ途切れにしか覚えていない。
メルティが追っ手を追い払ったこと。
助けが来るまで、焚き火の傍にいてくれたこと。
そして。
自分を助けたことなど、大したことでもないように――。
「もう一匹、捕まえてきます!」
そう言って森へ走っていった、小さな背中。
やがて王宮へ戻ってからも。
アルベルトは、何度も思い出した。
焼き魚の味ではない。
助けてもらったことだけでもない。
あの時。
泥だらけで。
傷だらけで。
それでも美味しいものを食べた瞬間だけは、心の底から幸せそうに笑った少女。
――もう一度。
あの顔を見たい。
それだけは、ずっと忘れなかった。
*
「……アルベルト様?」
メルティの声で、意識が現在へ戻った。
「……」
目の前には、大人になったメルティがいる。
心配そうにこちらを見ていた。
アルベルトは一瞬だけ、あの日の少女と今の彼女を重ねた。
「どうしました?」
「いや……」
小さく笑う。
やはり。
覚えていないのだろう。
メルティにとっては、旅の途中で助けた誰かの一人。
自分にとっては人生を変えた記憶でも、彼女にとってはそうではない。
それでいい。
「――また、君に助けられたな」
「また?」
メルティが首を傾げる。
「……いや。こちらの話だ」
「?」
不思議そうな顔をするメルティを見て、アルベルトは静かに息を吐いた。
あの日と同じ。
温かい食事。
そして、自分を心配してくれる声。
「……美味い」
「本当ですか?」
「ああ」
「よかった!」
メルティが笑った。
「――」
その瞬間。
アルベルトの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
――この笑顔だ。
ずっと。
この顔が見たかった。
*
「それで」
シルヴァンの声が割って入った。
「感傷に浸っているところ悪いが」
「……誰だ、そなたは」
アルベルトが初めてシルヴァンを見る。
「シルヴァンだ。メルティと旅をしている」
「……」
「……」
一瞬。
妙な沈黙が落ちた。
「メルティと?」
「はい! 古代樹海から一緒なんです」
「……そうか」
アルベルトの声が、ほんの少し低くなる。
「今はそれどころではないだろう」
シルヴァンが眉を寄せる。
「飛空艇があの有様だ。一体何があった?」
「……ああ」
アルベルトの表情から、僅かな嫉妬の色が消える。
代わりに、王族としての険しい顔へ戻った。
「それを伝えるために、ここまで来た」
「伝える?」
アルベルトは深く息を吸う。
「異変が起きている」
「異変?」
「ああ」
メルティの表情も引き締まる。
「この空中庭園だけではない」
アルベルトはゆっくりと言葉を続けた。
「北方、砂漠、沿岸部、王都周辺――大陸の各地で、ほぼ同じ時期に異常が報告されている」
「……」
「魔獣の異常発生。魔力流の乱れ。これまで姿を見せなかった災害級の個体まで現れ始めた」
シルヴァンが目を細める。
「先ほどの風魔竜も?」
「おそらく、その一つだ」
「……」
アルベルトは拳を握った。
「偶然ではない」
部屋の空気が変わる。
「何かが――大陸全体で、動き始めている」




