第62話
冷たく湿った風が、果樹園を吹き抜けた。
先ほどまで夕日に染まっていた雲海の向こうから、黒い雲がゆっくりと押し寄せてくる。風車の羽根が不規則に軋み、果樹の枝が大きく揺れ始めた。
「……来る」
シルヴァンが低く呟く。
次の瞬間。
――ゴロゴロゴロ……!
重い雷鳴が空を震わせた。
「……!」
黒雲の中で、紫色の光が走る。
そして、その雲を内側から引き裂くように、巨大な影が姿を現した。
「グルオオオオオッ!!」
漆黒の鱗。
大きく広げられた翼。
その全身を、紫電が這うように走っている。
「……黒雷の風魔竜」
シルヴァンの表情が強張った。
「知ってるんですか?」
「古い伝承で読んだ。嵐とともに現れ、通った土地を暴風と雷で荒らす災害級の魔獣だ」
「災害級……」
風魔竜が翼を振るう。
――ドンッ!
空気そのものが叩きつけられたような衝撃が走り、果樹園の木々が大きくしなる。
「きゃあああっ!」
「避難しろ!」
「果樹園から離れろ!」
街のあちこちから悲鳴が上がった。
メルティは、風に揺れる黄金リンゴの木々を見た。
先ほどまで笑いながら歩いていた果樹園。
美味しかったシードル。
焼きたてのパイ。
そこで暮らす人たち。
「……許せません」
「メルティ?」
声が低い。
「せっかく、あんなに美味しい街なのに」
「……」
「全部めちゃくちゃにするなんて、駄目です」
シルヴァンは一瞬だけ黙った。
そして剣を抜く。
「理由は相変わらずお前らしいが――」
風魔竜を見上げる。
「私も同感だ」
*
風魔竜が急降下する。
「来ます!」
巨大な鉤爪が振り下ろされた。
メルティは横へ跳び、地面を転がるように回避する。
――ズガン!
石畳が砕けた。
「右へ!」
シルヴァンの声。
メルティが反射的に動く。
そのすぐ横を、シルヴァンの剣が走った。
「――っ!」
風魔竜の前脚、その鱗の薄い継ぎ目を切り裂く。
「グオオッ!」
「そこです!」
体勢を崩した瞬間、メルティが地を蹴った。
拳を握る。
狙うのは、頭ではない。
翼の付け根。
「――えいっ!」
――ドンッ!
小柄な体から放たれたとは思えない衝撃が、風魔竜の巨体を横へ押し流した。
「相変わらず、とんでもない力だな……!」
「まだ来ますよ!」
「分かっている!」
風魔竜が空中で体勢を整え、尾を振り回す。
「上!」
「え?」
メルティがしゃがむ。
その頭上ぎりぎりを、シルヴァンが跳び越えた。
「――はっ!」
尾へ一閃。
だが、今度は浅い。
「硬い……!」
次の瞬間、風魔竜の翼が大きく開いた。
「離れろ!」
二人が同時に跳ぶ。
暴風が地面を薙ぎ払い、石片が飛び散った。
*
「……ちょっと戦いにくいですね」
「空を飛ばれると、こちらが不利だ」
メルティとシルヴァンは、一度距離を取る。
まだ二人で戦い始めたばかり。
相手の得意な距離も、動き方も、完全には分かっていない。
「さっき、私が前に出た時、シルヴァンさんの剣が当たりそうでした」
「お前が突然飛び込んでくるからだ!」
「じゃあ次は、声かけます」
「最初からそうしろ!」
風魔竜が再び向きを変える。
「来ます!」
「メルティ、右から回れ!」
「はい!」
今度は、動きが重ならない。
シルヴァンが正面から注意を引く。
風魔竜が鋭い爪を振り下ろした瞬間、メルティが死角へ回り込む。
「今だ!」
「はい!」
翼の付け根へ、掌底。
――ドンッ!
「グオオオッ!!」
風魔竜の高度が落ちる。
そこへシルヴァンが駆け込んだ。
「――はあっ!」
先ほど傷つけた箇所へ、今度は深く剣を入れる。
「よし!」
「ちょっと分かってきましたね!」
「戦いながら言うことか!」
それでも。
二度目。
三度目。
攻防を繰り返すうちに、少しずつ互いの動きが見えるようになっていった。
メルティが前へ出れば、シルヴァンが空いた場所を補う。
シルヴァンが足を止めれば、メルティが敵の意識を奪う。
完璧ではない。
けれど確かに――二人の戦い方が、形になり始めていた。
*
「グルオオオオオオオッ!!」
突然、風魔竜が大きく距離を取った。
「……?」
その口元へ、紫色の雷光が集まり始める。
同時に、周囲の雲が渦を巻いた。
「まずい!」
シルヴァンの顔色が変わる。
「何ですか?」
「あれを街へ撃つつもりだ!」
「……!」
風が一点へ吸い込まれていく。
雷。
冷気。
暴風。
それらが混ざり合い、巨大な圧力となって風魔竜の口元へ凝縮されていた。
「避難が間に合わない……!」
眼下には果樹園。
風車。
街。
まだ逃げ切れていない人たち。
「……っ!」
メルティが前へ出る。
「私が――」
その時。
「ルルル……!」
「……モチ?」
メルティの肩にいたモチが、低く唸った。
次の瞬間。
ふわり。
小さな体が宙へ浮かぶ。
「え?」
「モチ……?」
白い毛並みの間から、淡い光が漏れ始めた。
一つ。
また一つ。
やがて、その小さな体全体が、月のような白い光に包まれていく。
「きゅう……!」
いつもの可愛らしい声。
けれど。
周囲の空気が、変わった。
「……何だ、この魔力は」
シルヴァンが呆然と呟く。
風魔竜の口が開いた。
――轟音。
紫電をまとった巨大な暴風が、街へ向かって放たれる。
「モチ!」
「きゅうっ!!」
モチの前に、白い光が広がった。
薄い膜。
それは見る見るうちに大きくなり、街の前を覆う巨大な風の壁へと変わっていく。
そして。
暴風が衝突した。
――ドオオオオオオオオッ!!
「……っ!」
メルティが思わず腕で顔を庇う。
紫電が弾ける。
黒い風が荒れ狂う。
けれど。
白い結界は、揺らがない。
「……」
シルヴァンが目を見開く。
暴風が。
雷が。
まるで風に溶けるように、少しずつ消えていく。
数秒後。
そこには何も残っていなかった。
「……消した?」
メルティが呟く。
「いや……」
シルヴァンが息を呑む。
「受け流したのか……?」
*
「きゅっ!」
モチが、くるりと風魔竜へ向き直った。
白い光が、その小さな体の周囲へ集まる。
「モチ?」
――ブワッ!
突風。
「グオッ!?」
風魔竜の巨大な翼が煽られ、体勢が大きく崩れた。
先ほどの街を覆う結界ほどではない。
だが、一瞬。
確実に動きが止まった。
「メルティ!」
「はい!」
二人が同時に走る。
シルヴァンが翼の傷へ剣を入れる。
「――今だ!」
風魔竜の巨体が地面近くまで落ちた。
その正面へ。
メルティが踏み込む。
「人のご飯を――」
拳を引く。
「邪魔しちゃ駄目ですっ!」
――ドンッ!!
拳が、風魔竜の胸元へ叩き込まれた。
「グオオオオオオッ!!」
巨体が宙へ浮く。
さらにモチの風が追い打ちをかける。
――ブワアッ!
「グルオオオオ……!」
風魔竜は大きく吹き飛ばされ、雲海の向こうへと押し戻されていった。
やがて黒い影は遠ざかり。
暗雲も、少しずつ散っていく。
*
「……」
静かになった。
果樹園に、再び風が戻ってくる。
今度は冷たくない。
いつもの、柔らかな風。
「……終わった?」
メルティが呟く。
「どうやらな」
シルヴァンが剣を鞘へ戻した。
その時。
「きゅ……」
「あ」
モチを包んでいた白い光が消える。
ふらり。
「モチ!」
メルティが慌てて両手を伸ばした。
ぽすっ。
小さな体が、腕の中へ落ちてくる。
「大丈夫ですか!?」
「きゅぅ……」
弱々しく鳴いた。
「……力を使いすぎたのかもしれん」
シルヴァンが近づき、モチの様子を見る。
「怪我はなさそうだ」
「よかった……」
メルティがぎゅっと抱き締める。
「モチ、すごかったです!」
「きゅ……」
「本当にすごかったです!」
「今は休ませてやれ」
「あ、はい」
モチはメルティの胸元へ顔を埋めると、そのまま目を閉じた。
シルヴァンは、しばらくその姿を見つめていた。
「……メルティ」
「はい?」
「こいつ、本当に何者なんだ?」
「モチです」
「名前を聞いているのではない」
「幻獣です」
「それ以上を聞いている!」
「私も知りません!」
「……そうだったな」
シルヴァンが深くため息を吐く。
*
避難していた住人たちが、少しずつ戻ってきた。
「助かった……」
「果樹園も無事だ!」
「風車も壊れてないぞ!」
あちこちから安堵の声が上がる。
メルティは眠っているモチを撫でながら、果樹園を見渡した。
「よかったですね」
「ああ」
「シードルも」
「うむ」
「アップルパイも」
「……うむ」
「タルトも」
「そこまで確認する必要はあるのか?」
「大事です!」
シルヴァンは呆れたように息を吐いた。
けれど。
少しだけ笑っている。
「まあ……無事で何よりだ」
その時だった。
――ゴオオオオ……。
「……?」
今度は別の音。
二人が空を見上げる。
散り始めた雲の向こうから、一隻の飛空艇が姿を現した。
「……飛空艇?」
白と金で飾られた、大型の船。
帆には、王家の紋章が大きく描かれている。
「王族か?」
シルヴァンが警戒するように目を細める。
「……」
メルティは、その紋章をじっと見つめた。
「なんだ?」
「……これ」
どこかで見たことがある。
というより。
「知ってる気がします」
「知っている?」
飛空艇はゆっくり高度を下げ、街の中央広場へ向かっていく。
メルティは首を傾げたまま、その姿を見送った。
「誰でしたっけ……?」
「そこまで覚えていて、なぜ最後だけ出てこない」
「もうちょっとで思い出せそうなんですけど」
シルヴァンが眉を寄せる。
「……嫌な予感がするな」
眠ったモチを抱えたメルティの前で。
王家の紋章を掲げた飛空艇が、ゆっくりと空中庭園へ降り立とうとしていた。




