第61話
果樹園の中を歩き回っているうちに、午後の陽もだいぶ傾いていた。
枝いっぱいに実るリンゴを眺めたり、風車の下から雲海を覗き込んだり。シルヴァンが果樹の育て方について農園の人と話している間も、モチだけは忙しなく鼻を動かしていた。
「きゅっ」
「どうしました?」
突然、モチがメルティの袖をくいくいと引っ張る。
そのままとてとてと歩き出し、果樹園の端へ続く細い道へ入っていった。
「モチ、どこ行くんですか?」
「……また何か見つけたのではないか?」
シルヴァンの予想は、すぐに当たった。
道を少し進んだところで、甘く香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
「……!」
メルティとモチが、ほぼ同時に顔を上げた。
「こっちですね!」
「お前まで同じ反応をするな」
*
辿り着いたのは、果樹園の一角に建つ小さな菓子工房だった。
木組みの建物の煙突から白い煙が立ち、開いた窓からは焼けたバターとリンゴの甘い香りが漂っている。中へ入れば、大きな石窯の前に焼きたての菓子が並び、薪の爆ぜる音が心地よく響いていた。
「いらっしゃい!」
工房の主人が笑顔を向ける。
「ちょうど黄金リンゴの菓子が焼けたところだよ」
「黄金リンゴ!」
「きゅっ!」
「……お前たち、本当に似てきたな」
シルヴァンが呆れたように呟く。
窓の外には、夕日に照らされた果樹園と風車。その向こうには、橙色に染まり始めた雲海が広がっていた。
「いいところですね……」
メルティが窓際の席へ向かう。
「シルヴァンさん、食べましょう!」
「言われなくてもそのつもりだ。歩き回って腹も減った」
「おお、積極的!」
「何だその反応は」
*
「黄金リンゴの焼きたてパイと、カスタードタルト。それから熟成シードルだ」
「わぁ……!」
こんがり焼けたパイから、リンゴとバターの香りが立ち上っている。隣のタルトには薄く切った黄金リンゴが重なるように並び、表面には艶のある蜜が塗られていた。
「いただきます!」
メルティがパイへフォークを入れる。
さくっ。
軽い音とともに生地が崩れ、中から熱々のリンゴが現れた。
「……熱っ!」
「慌てるからだ」
「でも、美味しいです!」
リンゴにはまだ僅かに歯触りが残っていて、甘さの中に爽やかな酸味がある。バターの香ばしい生地と一緒に食べても、果実の味が埋もれない。
シルヴァンも一口食べ、静かに頷いた。
「これはいいな」
「ですよね!」
「甘いが、重すぎない。香草も少し入っているのか?」
「よく分かりましたね」
主人が嬉しそうに答える。
「この辺りで採れる香草をほんの少しだけな。黄金リンゴは香りが強いから、それに負けない程度に入れてるんだ」
「なるほど……」
シルヴァンが、妙に真剣な顔で断面を見る。
「また研究してます?」
「食文化を学んでいる」
「はいはい」
「その言い方をやめろ」
メルティは笑いながら、今度はタルトへ手を伸ばした。
フォークを入れると、柔らかなカスタードとリンゴが一緒に切れる。
「んんっ……こっちは濃厚です」
「だが、果実の酸味があるから食べやすいな」
「シードルも飲んでみましょう!」
今度のシードルは、昼に飲んだ無濾過のものより色が少し濃い。
二人で一口。
「……あ」
メルティが目を丸くした。
「昼のと全然違います」
「ああ」
シルヴァンもグラスを眺める。
「泡は穏やかだが、香りが深い。リンゴというより、蜂蜜や木のような香りもするな」
「パイの後だと、甘さより酸味を感じます!」
「同じ果実から造っても、こんなに変わるのか……」
昼に飲んだ瑞々しいシードル。
今飲んでいる、時間をかけて寝かせたシードル。
同じ街にいながら、まったく違う味がある。
「お酒って面白いですね」
「……それは認める」
「シルヴァンさん、完全にこっち側ですね」
「どっち側だ」
*
「きゅう……」
テーブルの下から、何とも切なそうな声がした。
「あ」
モチが二人を見上げている。
「忘れてたわけじゃないですよ!」
「本当か?」
「本当です!」
工房の主人が笑いながら、小さな皿を持ってきた。
「そっちのおチビさんには、これでどうだ?」
果実を練り込んだ、小さなパンだった。
「ありがとうございます!」
メルティが少しちぎって差し出す。
「モチ、どうぞ」
ぱくっ。
「……」
もぐもぐ。
「……きゅ!」
尻尾が勢いよく左右へ揺れた。
「美味しいみたいです!」
「こいつは本当に分かりやすいな」
シルヴァンの口元も自然と緩む。
暖かな工房。
窓の外に広がる雲海。
焼きたての菓子と、熟成されたシードル。
三人は日が傾くまで、のんびりとその時間を楽しんだ。
*
工房を出る頃には、空中庭園は夕暮れに包まれていた。
風車の長い影が果樹園を横切り、その向こうには橙色に染まった雲海が果てしなく広がっている。
「綺麗ですね……」
メルティが歩きながら呟く。
「ああ」
シルヴァンも静かに景色を眺めていた。
「海底都市とは、またまったく違う」
「どっちが好きです?」
「選べと言われても困るな」
「ですよね!」
モチはメルティの肩の上で丸くなり、夕方の風を気持ちよさそうに受けている。
「この街、本当にいいところですね」
「そうだな」
「ご飯も美味しいし、お酒も美味しいし」
「結局そこなのだな」
「景色もちゃんと好きですよ!」
メルティが笑う。
シルヴァンも、小さく笑った。
穏やかな風が、果樹園の葉を揺らしていた。
――その時だった。
「……きゅ?」
モチの耳が動く。
「どうしました?」
返事はない。
モチが、ゆっくりと顔を上げる。
そして。
「――きゅっ!」
突然、メルティの肩の上で立ち上がった。
「モチ?」
全身の毛が逆立っている。
さっきまでの眠そうな顔は消え、つぶらな瞳が一点を見つめていた。
雲海の向こう。
遠く離れた雲の切れ間に、暗い影がある。
「……」
モチの喉から、低い音が漏れた。
「ルルル……」
「そんな声、出せたんですね……」
メルティの表情から笑みが消える。
シルヴァンも、すぐにモチの視線を追った。
「……何かいるのか?」
その瞬間。
風が、止まった。
「――?」
風車の羽根が、ゆっくりと動きを鈍らせていく。
果樹の葉も揺れない。
先ほどまで絶えず吹いていた風が、まるで嘘のように消えていた。
「……おかしい」
シルヴァンが呟く。
空中庭園を支えるように吹き続けていた風。
それが、ない。
そして次の瞬間。
ひやり。
冷たい空気が、メルティの頬を撫でた。
「……っ」
さっきまでの乾いた高原の風ではない。
冷たく、湿っている。
どこか重い。
モチが再び唸った。
「ルルルル……」
シルヴァンの表情が変わる。
迷いなく、腰の剣へ手を伸ばした。
「メルティ」
「はい」
「……風が変わった」
遠くの暗い影が、先ほどより僅かに大きくなっているように見えた。
橙色に染まっていた雲海の端が、ゆっくりと黒く塗り替えられていく。
三人は言葉を失ったまま、その方角を見つめる。
穏やかだった空中庭園へ。
何かが、近づいていた。




