第60話
風の渓谷の麓。
メルティたちは、空中庭園都市へ向かうための風導気球に乗り込んでいた。
王家から贈られた通行証を見せると、係員は一瞬目を見開いたものの、すぐに恭しく道を開けてくれた。
「これがないと乗れなかったんですね」
「だから特別通行証なのだろう」
「もらっておいてよかったです!」
「昨日まで用途も知らなかった奴の言葉とは思えんな」
シルヴァンが呆れたところで、大きな気球がふわりと浮かび上がった。
「わ……!」
足元がゆっくりと遠ざかっていく。
谷を吹き抜ける強い風を、気球の周囲に張られた魔導膜が受け止め、その力を使って船体を上へ上へと運んでいた。
「きゅっ……」
メルティの膝にいたモチが、風に揺れる自分の毛を気にするように顔をしかめる。
「モチ、大丈夫ですか?」
「きゅう……」
やがて耐えきれなくなったのか、よじよじとメルティの肩へ登り、首元にしがみついた。
「ふふ。風で毛がぐちゃぐちゃになるの嫌なんですね」
「そこを気にするのか、こいつは」
けれどモチの瞳は、前方から離れない。
気球はさらに上昇し、やがて真っ白な雲へ突入した。
一瞬、辺り一面が白くなる。
そして――。
「――!」
雲を抜けた。
「わぁ……!」
メルティが思わず身を乗り出す。
眼下に広がるのは、果ての見えない雲海。
その上に突き出した高い山々の尾根を縫うように、緑豊かな果樹園や白い建物が広がっていた。
遠目には、まるで雲の上に島々が浮かんでいるように見える。
「これが……空中庭園都市」
シルヴァンも目を細める。
あちこちで巨大な風車がゆっくりと回り、その間を細い吊り橋や空中回廊が結んでいる。
「海の底の次は、雲の上……」
「旅に出てから、知らない景色ばかりだな」
「楽しいでしょう?」
「……ああ」
シルヴァンは素直に頷いた。
その時。
「きゅっ!」
モチが突然、鼻をひくひくと動かした。
「どうしました?」
風に乗って、甘く爽やかな香りが流れてくる。
「……リンゴ?」
シルヴァンも気づいたらしい。
メルティの顔が輝いた。
「シードルの街に来たって感じがしますね!」
「まだ飲んでもいないのに嬉しそうだな」
「もう匂いが美味しいです!」
*
街へ降り立つと、まず目に入ったのは果物だった。
赤。
黄色。
淡い緑。
市場の軒先には、さまざまな果実が籠いっぱいに並んでいる。
中でも多いのがリンゴだった。
「こんなに種類があるんですね……」
「同じ果実とは思えんな」
大きさも色も違う。
香りの強いもの。
酸味が強いもの。
そのまま食べるものから、酒造り専用と書かれたものまであった。
「きゅっ」
メルティの肩から、モチが飛び降りる。
「あ、モチ!」
とてとて。
市場のリンゴを一つずつ嗅ぎながら歩き始めた。
「何をしているんだ、あいつは」
「選んでるんじゃないですか?」
「何を?」
「美味しいやつを」
「……まさか」
だがモチは、ある店の前でぴたりと止まった。
「きゅ」
籠の中。
いくつも並んだ黄金色のリンゴの一つを、鼻先でこつんと押す。
「これですか?」
メルティが手に取る。
すると店主が目を丸くした。
「おお。嬢ちゃんの獣、鼻が利くな」
「やっぱりですか!?」
「今日の朝摘みの中でも、それが一番熟れてる。傷もないし、香りも一番いい」
「モチ!」
「きゅう!」
メルティが抱き上げると、モチは得意げに胸を張った。
「すごいです! ちゃんと分かるんですね!」
「……果実の熟れ具合まで嗅ぎ分けられるのか」
シルヴァンも感心したようにモチを見る。
「これは旅先で役に立ちそうだな」
「でしょう?」
「ただし、人の店の商品を勝手に食うなよ」
「きゅ?」
「……分かっていない顔だな」
「ちゃんと教えます!」
「そこは頼むぞ」
*
昼頃。
三人は雲海を一望できる酒場のテラス席に座っていた。
「無濾過のシードルと、空中鶏のシードル煮込み。それから焼きたての果実パンをお願いします!」
「あいよ!」
しばらくすると、淡い黄金色の酒が二人の前へ運ばれてきた。
グラスの底から、小さな泡が静かに立ち上っている。
「これが本場のシードルか」
「楽しみですね!」
二人でグラスを持ち上げた。
「いただきます!」
ひとくち。
「……!」
最初に感じたのは、瑞々しいリンゴの香りだった。
甘みのあとを追うように爽やかな酸味が広がり、最後には皮を思わせる僅かな渋みが残る。
「美味しい……!」
メルティがグラスを見つめる。
「リンゴのジュースみたいに香るのに、ちゃんとお酒です」
「甘いだけではないな」
シルヴァンももう一度口に含む。
「酸味と、少し苦みもある。そのおかげで飲み飽きない」
「シルヴァンさん、本当にお酒の感想上手くなりましたね」
「昨日のことを思い出させるなら、この杯を置くぞ」
「何も言ってないですよ!」
「顔が言っている」
メルティは笑いを堪えながら、自分のグラスへ口をつけた。
*
「お待たせしました。空中鶏のシードル煮込みです」
「わぁ……!」
深い皿の中には、大きな鶏肉と根菜がたっぷり入っていた。
淡い琥珀色の煮汁から、リンゴと香草の香りが立ち上っている。
メルティがフォークを入れる。
ほろり。
「柔らかい!」
「本当だな」
シルヴァンも驚いたように身を崩す。
ひと口。
「んんっ……!」
肉にはシードルの爽やかな酸味と果実の甘みが染み込んでいる。けれど甘すぎず、鶏の旨みもしっかりと残っていた。
「美味しいです!」
「酒を料理に使うと、こうなるのか」
「シードルで煮て、そのシードルを飲む……最高ですね」
「確かに相性はいい」
シルヴァンもグラスを傾ける。
「料理のあとに飲むと、さっきより果実の香りを強く感じるな」
「ですよね!」
「……」
シルヴァンが一瞬止まった。
「どうしました?」
「最近、お前と同じようなことを考えるようになってきた気がする」
「いいことです!」
「本当にそうなのだろうか……」
*
最後に運ばれてきた果実パンを割ると、中から湯気と一緒に甘い香りが広がった。
刻んだリンゴや木の実が練り込まれている。
「モチにも少しだけ」
「きゅ!」
メルティが小さくちぎって差し出す。
ぱくっ。
もぐもぐ。
「……」
モチの目が大きくなる。
「きゅうっ!」
尻尾が勢いよく揺れ始めた。
「気に入ったみたいです!」
「分かりやすい奴だな」
シルヴァンも笑う。
雲の下には地上の山々。
頭上には青空。
心地よい風が吹き抜け、テーブルにはシードルと温かな料理。
「海の底もよかったですけど」
メルティが辺りを見渡す。
「空の上も最高ですね」
「ああ」
シルヴァンもグラスを置いた。
「それで?」
「はい?」
「次はどこを見る」
メルティが目を瞬いた。
そして、にやりと笑う。
「シルヴァンさん」
「なんだ」
「すっかり旅する気満々ですね」
「……!」
「前だったら『次はどこへ行くつもりだ』って言ってたのに」
「細かいところを覚えているな!」
「嬉しいんですよ」
「……」
シルヴァンは少しだけ視線を逸らした。
「せっかく来たのだ。見られるものは見ておいた方がいいだろう」
「はいはい」
「その顔をやめろ」
「きゅっ!」
モチまで楽しそうに鳴く。
「じゃあ、果樹園の方に行ってみましょう!」
「まだ食べるのか?」
「見るだけかもしれませんよ?」
「信用できんな」
三人は笑いながら席を立った。
海の底から、雲の上へ。
旅仲間が増えるたび、同じ景色でも楽しみ方は少しずつ増えていく。
メルティはモチを肩へ乗せ、シルヴァンと並んで、風に揺れる果樹園へ向かって歩き出した。




