第59話
「――どうか、こちらをお受け取りください」
海底都市を発つ朝。
泡導船の乗り場へ向かおうとしていたメルティたちのもとへ、市長と昨夜の王族一行の使者がやってきた。
「昨日の晩餐会では、本当に助けていただきました」
市長から渡されたのは、ずしりと重い報酬の袋と、海底都市の香草や調味料を詰め合わせた小箱。
「こんなにいただいていいんですか?」
「もちろんです。あのままでは、我々は大変な失態を犯すところでしたから」
「それから、こちらは我が主より」
王族の使者が差し出したのは、金色の縁取りが施された一枚の通行証だった。
「これは?」
「我が国と親交のある都市へ入る際に使える、王家の紹介状を兼ねた特別通行証です」
「特別通行証……」
「昨夜の一皿を、殿下方も大変気に入っておられました。旅の途中で役立ててほしい、と」
「……そんな大層なことしたつもりじゃないんですけど」
メルティが困ったように笑う。
「素直に受け取っておけ」
隣のシルヴァンが言った。
「昨日のお前は、それだけのことをした」
「じゃあ……ありがとうございます!」
メルティは頭を下げ、大切に荷物へしまった。
そして、その腕の中では。
「……すぅ」
白いふわふわの幻獣が、何の心配もない顔ですやすやと眠っていた。
「こいつは本当に自由だな」
「可愛いからいいんです」
「それで済ませるな」
*
泡導船へ乗り込み、海底都市を離れる。
窓の向こうでは、発光珊瑚に彩られた街が少しずつ遠ざかっていった。
「楽しかったですね」
「ああ」
シルヴァンも静かに街を見送る。
「……少し騒がしかったがな」
「シルヴァンさんが酔っ払ったり」
「その話はするな」
「はい」
メルティは笑いながら、膝の上で眠っている幻獣を撫でた。
「そういえば、この子」
「ん?」
「まだ名前がないですね」
「……確かに」
二人して、白い毛玉を見下ろす。
「シルヴァンさん、何かあります?」
「そうだな」
シルヴァンは真剣な顔で考え始めた。
「この雪のような白い毛並み。それに幻獣という希少性を考えれば、相応に気品のある名が――」
「あ」
「何だ」
「美味しそうな名前がいいです」
「……なぜだ」
「だってこの子、食べるの大好きじゃないですか」
「お前と同じだな」
「そうですね!」
「褒めてはいない」
メルティは気にせず、幻獣をじっと観察する。
丸い。
白い。
ふわふわしている。
触れば、柔らかくてよく伸びそうなほど、もちもちしている。
「……決めました」
「嫌な予感がする」
「モチ!」
「……モチ?」
「はい!」
メルティは幻獣を持ち上げる。
「真っ白で、丸くて、もちもちしてるからモチです!」
「幻獣に対する敬意はどこへ行った」
「可愛いでしょう?」
「名前の理由が完全に食べ物ではないか」
「でも、絶対似合います!」
二人が話していると、幻獣がぱちりと目を覚ました。
「おはようございます」
「きゅ?」
つぶらな瞳が、メルティとシルヴァンを交互に見る。
「モチ」
「きゅ?」
「モチ!」
「きゅっ!」
嬉しそうに尻尾が揺れた。
「ほら! 気に入ってます!」
「今ので分かるのか?」
「返事しましたよ?」
「たまたまだろう」
「モチ!」
「きゅっ!」
「……」
シルヴァンが黙った。
「決まりですね」
「……まあ、本人がいいなら構わん」
「じゃあ今日からモチです!」
「きゅう!」
こうして。
幻獣としての正式な種族名すら、まだよく分かっていない白い毛玉は――。
メルティによって、モチと名づけられた。
*
泡導船が浮上するにつれ、窓の外の色が少しずつ変わっていく。
漆黒。
深い藍。
青。
そしてやがて、水面の向こうから眩しい陽光が差し込んだ。
「……!」
船が海面へ出る。
窓が開けられ、潮風が船内へ吹き込んできた。
「んー!」
メルティが大きく伸びをする。
「やっぱり、お日様もいいですね!」
「ああ」
シルヴァンも目を細め、久しぶりの陽光を浴びた。
「海底の景色も美しかったが……これはこれで落ち着くな」
「森育ちですもんね」
「それもあるかもしれん」
メルティは荷物を探り、一つの包みを取り出した。
「じゃあ、お土産食べましょう!」
「もう食べるのか?」
「旅のおやつです」
中身は、海底都市で買っておいた深海魚の燻製だった。
薄く裂かれた身には、特製の香草塩がまぶしてある。
「どうぞ」
「……いただこう」
シルヴァンが一口。
「ほう」
「美味しいですか?」
「噛むほど味が出るな。塩気は強いが、香草のおかげで後に残りすぎない」
メルティも一切れ口へ放り込む。
「んんっ。美味しい!」
潮風の中で食べるせいか、海の香りまで味の一部になったように感じる。
「これ、お酒にも絶対合いますよ」
「……」
シルヴァンがメルティを見る。
「一杯だけですよ?」
「私は何も言っていない」
「顔に書いてありました」
「昨日の今日で飲ませようとするな」
「じゃあ私だけ」
「……少しだけなら付き合う」
「飲むんじゃないですか!」
「一杯だけだ!」
二人は小さな杯に地酒を注いだ。
「乾杯!」
「……乾杯」
軽く杯を合わせる。
その直後。
「きゅっ」
モチが二人を見上げていた。
「モチも欲しいですか?」
「酒はやるなよ」
「分かってます!」
燻製をほんの少しちぎって差し出す。
ぱくっ。
「きゅう!」
モチの尻尾が勢いよく揺れた。
「気に入ったみたいです」
「……ますますお前に似てきたな」
「そうですか?」
「食べ物を与えた時の反応がな」
*
しばらくして。
メルティは、今朝渡された通行証を取り出していた。
「そういえば、これ」
「どうした?」
「どこで使えるんでしょう?」
「見せてみろ」
シルヴァンが受け取り、表面に刻まれた紋章を確認する。
「……これは」
「知ってます?」
「ああ。以前、里を訪れた旅人から聞いたことがある」
指先で紋章をなぞる。
「風の渓谷を越えた先にある、空中庭園都市のものだ」
「空中……?」
「高い山々の間に築かれた都市で、雲より高い場所にあるという」
「雲より上!」
メルティの目が一気に輝いた。
「海の底の次は、空ですか!?」
「そういうことになるな」
「行きたいです!」
「まだ説明の途中だ」
「あ、はい」
シルヴァンは小さく息を吐く。
「外から来た者が自由に立ち入れる場所ではないらしい。だが、この通行証があれば問題なく入れるだろう」
「なるほど……」
「そして確か――」
シルヴァンが少し考える。
「天空果樹園と呼ばれる場所がある」
「果樹園?」
「ああ。昼夜の寒暖差と強い風の中で育つ果実から、特別な果実酒を造るそうだ」
「……!」
「中でもリンゴを使ったシードルは有名らしい」
「シードル!」
「それから、空を飛ぶ魔鳥を使った料理も――」
「行きましょう!」
「だから最後まで聞け!」
「シードルと鳥肉ですよ!?」
「分かったから落ち着け!」
メルティはもう地図を広げていた。
「風の渓谷はどっちですか?」
「……こちらだ」
「よし!」
「本当に忙しないな、お前は」
呆れた声。
けれど、シルヴァンもどこか楽しそうだった。
「きゅっ!」
モチまで、何かを察したように声を上げる。
「モチも行きたいですよね!」
「きゅう!」
「ほら!」
「それは絶対に分かっていないだろう」
三人分の笑い声と鳴き声を乗せながら、泡導船は青い海を進んでいく。
海の底から、今度は雲の上へ。
メルティとシルヴァン、そしてモチ。
新しく三人になった一行は、まだ見ぬ景色と美味しいものを求めて、次の目的地へ向かうのだった。




