第58話
ふわふわの幻獣を膝に乗せたまま、メルティが機嫌よく毛並みを撫でていると、旧船渠の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「――お、お待ちください!」
「?」
息を切らせて駆けてきたのは、先ほど市場で会った商人だった。その後ろには、豪奢な礼装に身を包んだ恰幅のいい男と、白い料理服を着た数人の料理人まで続いている。
「見つかったのか!?」
「市長、この樽です!」
商人が指さした先には、幻獣が抱えていた極深海ハーブの樽。
その隣には、割られた虹色真珠貝の殻がいくつも転がっている。
「……ああ……」
市長と呼ばれた男の顔から、さっと血の気が引いた。
「食べられている……」
「全部じゃないですよ?」
メルティが慌てて言う。
「こっちの箱には、まだ無事な貝が残ってます。ハーブも、樽の中身はほとんど大丈夫です」
「そ、そうなのですか!?」
料理長が箱へ飛びつくように中身を確認した。
「……確かに。だが……」
安堵したのも束の間、すぐに険しい表情へ戻る。
「予定していた量には足りない」
「予定?」
メルティが首を傾げる。
市長は額の汗を拭いながら答えた。
「実は今夜、隣国の王族を招いた晩餐会が開かれるのです」
「王族?」
「そのために、虹色真珠貝と極深海ハーブを特別に取り寄せておりました。海底都市ならではの料理を振る舞う予定だったのですが……」
料理長が手にしていた献立表を握りしめる。
「虹色真珠貝を一人一枚使う予定だった。だが、これでは数が足りん」
「別の料理に変えるのは?」
「今から全てを組み直すには時間が……」
晩餐会までは、あと数刻。
料理人たちの表情にも焦りが浮かんでいた。
「……」
メルティは、残された真珠貝を見る。
次にハーブ。
そして――膝の上で幸せそうに丸くなっている幻獣へ視線を落とした。
「……そういえば」
「どうした?」
シルヴァンが尋ねる。
「この子、真珠貝を食べる時に、わざわざハーブの樽まで持ってきてたんですよね」
「……ああ」
「ということは」
メルティは、ぱっと顔を上げた。
「この二つ、やっぱり一緒に食べたら美味しいんじゃないでしょうか」
「――?」
料理長が目を瞬く。
「一枚ずつ出せないなら、一枚をもっと薄く切って、別の一皿にすればいいんです」
「薄く……?」
「はい!」
メルティは腰の星銀のナイフへ手を添えた。
「量が足りないなら、少ない量でも一番美味しく食べられる料理に変えましょう!」
*
「――厨房を貸してください!」
数十分後。
メルティとシルヴァンは、市長館の大厨房に立っていた。
周囲では料理人たちが晩餐会の準備に追われ、鍋や皿が慌ただしく行き交っている。
「まずは、この貝ですね」
メルティは無事だった虹色真珠貝を一つ手に取った。
殻を開き、星銀のナイフを身と殻の間へ滑り込ませる。
――すっ。
「……!」
料理長が思わず身を乗り出した。
柔らかな貝柱を傷つけることなく、身だけが綺麗に外れる。
「この刃……なんという切れ味だ」
「ドワーフの職人さんに作ってもらったんです!」
メルティは嬉しそうに答え、そのまま貝の身を薄くそぎ切りにしていく。
一枚。
もう一枚。
向こう側が僅かに透けるほど薄いのに、断面は潰れていない。
「これなら、一枚の貝から何人分も取れる……」
料理長の目つきが変わった。
「そういうことです!」
そこへシルヴァンが極深海ハーブを手に取る。
「……この香り」
「何か分かります?」
「ああ。森にある香草とは違うが、性質は近い」
葉を指先で軽く揉み、香りを確かめる。
「強く火を入れると、この爽やかな香りは飛ぶだろう。最後に加えた方がいい」
「なるほど!」
「最初に少量だけ炙れば、別の香ばしさも出せそうだ」
「じゃあ、両方やってみましょう!」
「待て。いきなり全部使うな」
「あ」
「少量で試す」
「シルヴァンさん、すっかりこういう時の止め役ですね」
「お前が勢いで全部入れそうだからだ!」
料理長が思わず吹き出した。
*
まず、ごく少量のハーブを軽く炙る。
熱を受けた瞬間、青々とした香りの奥から、ほんのり香ばしい匂いが立ち上がった。
「いいですね」
次に、薄く切った虹色真珠貝を鉄板へ。
表面へさっと火を入れる程度に留め、身の柔らかさは残す。
最後に――。
「これを使いましょう」
メルティが取り出したのは、深海泡酒。
「酒を?」
「せっかく海底都市の料理ですから!」
ほんの少量を鉄板へ落とす。
――じゅっ。
立ち昇った蒸気に、果実のような酸味と海辺の酒らしい香りが混ざった。
「……!」
料理長が鼻を動かす。
「これは……」
火を止め、最後に生の極深海ハーブを少しだけ散らす。
薄切りの虹色真珠貝を重ねるように皿へ盛り、鉄板に残った深海泡酒の香りをまとわせた汁を、ほんの僅かに回しかけた。
「できました!」
料理長が一口、試食する。
「……」
「どうです?」
「……もう一口」
「え?」
「確認だ」
二口目。
「……」
料理長は静かにフォークを置いた。
「これでいこう」
「本当ですか?」
「ああ」
表情には、先ほどまでの焦りがない。
「真珠貝を丸ごと一枚出すより、こちらの方が香りを楽しめる。何より、この薄さなら残った貝でも全員分を用意できる」
「よかったです!」
「それに――」
料理長は極深海ハーブを見る。
「まさか、このハーブと真珠貝がここまで合うとはな」
三人の視線が、厨房の入口へ向く。
そこには、メルティを追ってきた白い毛玉がちょこんと座っていた。
「……あの子が先に知ってたんですね」
「盗み食いでな」
シルヴァンが冷静に付け足した。
「そこは駄目ですけど」
*
その夜。
市長館の大広間では、隣国から訪れた王族を迎える晩餐会が開かれていた。
幾つもの料理が運ばれる中、新しく加えられた一皿が静かに置かれる。
「こちらは?」
若い王女が興味深そうに皿を見つめる。
「虹色真珠貝の香草焼き、深海泡酒の香りでございます」
薄く切られた真珠貝には淡い焼き色がつき、緑のハーブが彩りを添えている。
王女が一切れ口へ運んだ。
「……!」
ゆっくり目を見開く。
「これは……」
隣にいた王子も続けて口にする。
「貝が、驚くほど柔らかい」
「ええ。それに、この香り……」
王女がもう一口。
「最初は香ばしいのに、あとから爽やかな香草の香りが抜けていきます」
「酒の酸味もいい。貝の甘みが残るのに、後味が重くない」
静かだった王族の席から、少しずつ感嘆の声が広がっていく。
料理長は厨房の入口からそれを見守り、ようやく大きく息を吐いた。
「……助かった」
隣にいたメルティへ頭を下げる。
「本当にありがとう」
「私は、この子の真似をしただけですよ」
「……?」
メルティが足元を見る。
白い幻獣は、何か褒められたのを察したのか、尻尾のようなふわふわした部分を嬉しそうに振っていた。
*
晩餐会が無事に終わったあと。
市長と商人も、改めて二人のもとへやってきた。
「いやあ、今回は本当に助かりました」
市長が深々と頭を下げる。
「盗まれた時はどうなることかと思いましたが、まさか新しい料理まで生まれるとは」
「この子のおかげですね」
メルティが幻獣を抱き上げる。
「……まあ、貝を食われたのは痛かったけどな」
商人が苦笑する。
幻獣が、びくっと体を縮めた。
「あ」
メルティの腕へ顔を埋める。
「怒られると思ってますよ」
「もう怒らんよ」
商人はため息をつく。
「晩餐会が成功したなら、今回は勘弁してやる」
幻獣が、そっと顔を出した。
「……」
「ただし、もう人の店から勝手に食い物を持っていくなよ」
「分かります?」
メルティが尋ねる。
幻獣は首を傾げた。
「……たぶん分かってませんね」
「だろうな」
シルヴァンが呟いた。
市長は白い毛玉を眺めながら言う。
「それにしても珍しい」
「この子、何なんですか?」
「この辺りの深海では、稀にこういう幻獣が姿を見せることがある。だが、人前へ出てくること自体が珍しい」
「幻獣……」
「ああ。ましてや、人間にここまで懐くなど聞いたことがない」
「……」
メルティは腕の中を見る。
幻獣は完全にくつろぎ、もう眠そうに目を細めている。
「可愛いですね」
「そこなのか」
シルヴァンが呆れる。
*
翌朝。
海底都市を発つため、メルティとシルヴァンは泡導船の乗り場へ向かっていた。
「楽しかったですね!」
「ああ。いろいろありすぎた気もするがな」
「深海泡酒も美味しかったですし」
「……その話はするな」
「どうしてです?」
「思い出したくない」
「『お前について来てよかった』」
「メルティ」
「すみません」
二人が歩いていく。
その後ろを――。
とてとて。
「……」
シルヴァンが振り返る。
白い幻獣がいる。
「メルティ」
「はい?」
「あれ」
「……あ」
二人が止まる。
幻獣も止まった。
「どうしたんですか?」
メルティが近づく。
幻獣はすぐに駆け寄り、メルティの足へぎゅっとしがみついた。
「わっ」
「……ついて来るつもりではないのか?」
「え?」
メルティはしゃがみ込む。
「一緒に来たいんですか?」
「……」
幻獣がメルティを見上げる。
そして――。
「きゅっ」
「……!」
小さな声を上げ、両前脚を伸ばした。
「シルヴァンさん!」
「私に聞くな」
「連れて行ってもいいでしょうか!」
「だから私に許可を求めるな!」
「でも旅仲間ですし!」
「……」
シルヴァンは幻獣を見る。
幻獣も見返す。
「……」
「きゅ」
「……」
シルヴァンは長く息を吐いた。
「勝手にしろ」
「やった!」
「ただし」
「はい?」
「食べ物を盗まないよう、ちゃんと教えろ」
「はい!」
「それから世話もすること」
「もちろんです!」
「あと、私の食事まで取られたら――」
「シルヴァンさんも結構そこ大事なんですね」
「当然だ!」
メルティは笑いながら、白い幻獣を抱き上げた。
「じゃあ、一緒に行きましょうか」
「きゅっ!」
嬉しそうに鳴き、そのままメルティの肩へよじ登る。
「ふふ。新しい旅仲間ですね」
「……また賑やかになったな」
シルヴァンが呆れたように言う。
けれど、その表情には僅かな笑みが浮かんでいた。
メルティ。
シルヴァン。
そして、食べることが大好きらしい、小さな幻獣。
三人になった一行は、泡導船へ向かって歩き出す。
「そういえば」
メルティが肩の幻獣を見る。
「名前、どうしましょうか?」
「……決めていなかったのか?」
「今から考えます!」
「嫌な予感しかしないな」
海底都市の淡い光の中、また一つ増えた小さな足音とともに、メルティたちの旅はさらに賑やかになっていくのだった。




