第57話
翌朝。
宿の一室で、シルヴァンはベッドの端に腰掛け、両手で顔を覆っていた。
「……うわぁ……」
頭が少し重い。
けれど、それ以上に問題なのは――昨夜の記憶が、驚くほど鮮明に残っていることだった。
(『お前について来て、よかった』……)
「……」
(『これからも、色々見せてくれ』……)
「うわぁぁ……」
普段なら絶対に口にしないようなことを、真正面から堂々と言っていた。
しかも。
(『私は、その理由が結構好きだ』まで……!)
思い出せば思い出すほど、耳まで熱くなってくる。
その時。
「おはようございます、シルヴァンさん」
「――っ!」
扉の隙間から、メルティがひょこっと顔を出した。
「……お、おはよう」
「昨日のこと、覚えてます?」
「……」
シルヴァンは答えない。
メルティの口元が、にやりと上がった。
「覚えてるんですね」
「忘れろ」
「えー」
「今すぐ忘れろ」
「でも、嬉しかったですよ?」
「……!」
シルヴァンの長い耳が一気に赤くなった。
「『お前について来てよかった』って」
「言うな!」
「『これからも色々見せてくれ』って」
「復唱するな!」
メルティはとうとう吹き出した。
「シルヴァンさん、酔うとすごく素直になるんですね」
「……二度とあれほど飲まん」
「本当ですか?」
「本当だ!」
「じゃあ、今日は二日酔いに効く朝ご飯にしましょう」
「……」
シルヴァンは少し間を置いてから立ち上がった。
「その提案には、素直に従おう」
「今日は素直ですね」
「それ以上言うなら行かんぞ」
「ごめんなさい!」
*
朝の酒場で二人を待っていたのは、湯気の立つ海鮮スープだった。
「二日酔いならこれだ」
店主が大きな器を置く。
澄んだ出汁の中には、白身魚や貝、海藻がたっぷり入っている。仕上げに絞られた柑橘と、刻んだ香草の爽やかな香りが湯気に混じっていた。
「いただこう……」
シルヴァンがひと口すする。
「……」
「どうです?」
「……染みる」
昨日までの凛とした美青年とは思えないほど、しみじみとした声だった。
「美味しいですよね!」
「ああ。出汁はしっかりしているのに、柑橘のおかげで重くない」
もうひと口。
「……これは助かる」
「昨日、『海底の気圧のせいだ』って言ってましたもんね」
「その話は終わったはずだ」
「はい」
「笑うな」
「笑ってません」
「口元を隠せ」
メルティは慌ててスープを飲んだ。
しばらくの間、二人の間には器をすする穏やかな音だけが響いていた。
「……よし」
やがてシルヴァンが顔を上げる。
「復活した」
「早いですね!」
「このスープは覚えておこう」
「もう次に飲みすぎる前提じゃないですか?」
「違う!」
*
朝食を終えて市場へ向かうと、通りの先が妙に騒がしかった。
「盗まれたぞ!」
「虹色真珠貝が一箱まるごとだ!」
「極深海ハーブの樽までない!」
「……?」
メルティとシルヴァンは顔を見合わせ、人だかりへ近づいた。
中心では、商人らしき男が真っ青になっている。
「昨日仕入れたばかりなんだぞ! 虹色真珠貝なんて、一枚いくらすると思ってるんだ!」
「極深海ハーブもだ! 酒の香りづけに使う最高級品なのに……!」
「泥棒ですか?」
メルティが尋ねる。
「そうとしか思えん! 夜のうちに倉庫から消えたんだ!」
シルヴァンの表情が引き締まる。
「衛兵は?」
「今探してもらってる。だが、まだ手がかりが――」
「ちょっと見てもいいですか?」
メルティが倉庫の前へしゃがみ込んだ。
「メルティ?」
「ここ」
床を指さす。
木箱を引きずったような跡が、通路の端まで続いている。
その横には、小さな足跡。
「人の足じゃないですね」
「……確かに」
シルヴァンもしゃがみ込む。
さらに、倉庫の入口近くには虹色真珠貝の殻が一欠片だけ落ちていた。
端に、細かな歯形がついている。
「盗賊なら、ここで食べたりしないですよね?」
「少なくとも、普通の盗賊の仕業ではなさそうだ」
「それに――」
メルティは鼻をひくつかせる。
「ハーブの匂いが、まだ残ってます」
「追えるのか?」
「たぶん!」
「……お前の『たぶん』にも慣れてきたな」
「行ってみましょう!」
*
痕跡は、市場の裏手から海底都市の外縁へ続いていた。
そこは、引き上げられた古い船や壊れた資材が積まれた旧船渠だった。朽ちた船体の隙間では、青白い発光藻が淡く揺れている。
「こっちです」
メルティが足を止める。
「……何かいるな」
シルヴァンも気配を察し、腰の剣へ手をかけた。
がさっ。
船の残骸の陰から、小さな音がした。
「……?」
二人が慎重に覗き込む。
そこにいたのは――。
「……毛玉?」
白くて、丸い。
全身を長いふわふわの毛に覆われた、小さな生き物が、ハーブ樽へ抱きつくように丸まっていた。
その傍らには、割られた虹色真珠貝の殻がいくつか転がっている。
「こいつが犯人か」
シルヴァンが剣を抜こうとする。
「待ってください」
メルティがそっと手を出した。
「……どう見ても、悪そうには見えません」
「見た目で判断するな。魔物かもしれん」
「じゃあ、ちょっと様子を見ましょう」
ふわふわの生き物は二人の気配に気づいたのか、びくっと体を震わせた。
毛の間から、つぶらな瞳が覗く。
「……」
「……」
逃げない。
襲ってもこない。
ただ、ハーブ樽をぎゅっと抱き締めている。
「このハーブ、好きなんでしょうか」
「盗んだのだぞ」
「それは駄目ですけど」
メルティは周囲を観察した。
虹色真珠貝の殻。
少し離れた場所には、中身を食べた跡。
そして生き物が抱きついている極深海ハーブの樽。
「……あ」
「何だ?」
「もしかして、この匂いが好きなんじゃなくて」
メルティは殻を一枚拾い、鼻先へ近づける。
そこには、ほんの僅かにハーブの香りが移っていた。
「貝と一緒に、この香りが欲しかったのかも」
「……食べ合わせを選んだと?」
「だとしたら、結構分かってますね」
「感心するところか?」
「だって、美味しそうじゃないですか」
「……」
シルヴァンは何も言えなくなった。
*
メルティはゆっくりとしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですよ」
ふわふわの生き物が、警戒するように鼻を動かす。
「怒らないです」
「いや、盗品を返してもらう必要はあるぞ」
「それはあとで」
「あとでなのか?」
メルティは荷物から、昨日買っておいた燻製肉を一切れ取り出した。
星銀のナイフで細く切り、少しだけハーブを擦りつける。
「どうぞ」
そっと地面へ置く。
ふわふわの生き物は動かない。
「……」
鼻だけが、すんすんと動く。
一歩。
また一歩。
警戒しながら近づいてきて――。
ぱくっ。
「食べた!」
「静かにしろ」
もぐもぐ。
「……」
もう一度、鼻をひくつかせる。
そして。
とてとてと、メルティの方へ歩いてきた。
「わ……」
膝へ前脚をかける。
そのまま、よじよじと登ってきた。
「――!」
メルティの腕の中へ、すっぽり収まる。
「ふわふわです……!」
「懐くのが早すぎないか?」
生き物は気持ちよさそうに目を細め、メルティの胸元へ顔を埋めた。
「可愛い……」
「メルティ」
「はい?」
「まず盗まれたものを返すぞ」
「そうでした」
「忘れるな」
シルヴァンは呆れたように息を吐いた。
けれど。
「……」
白い毛玉が、ちらりとシルヴァンを見る。
「……何だ」
首を傾げる。
「……」
「見るな」
さらに首を傾げる。
「……」
シルヴァンの眉間の皺が、ほんの少し緩んだ。
「……まあ、危険ではなさそうだな」
「シルヴァンさんも可愛いと思ってます?」
「思っていない」
「顔がちょっと笑ってますよ」
「笑っていない」
「触ります?」
「……」
少し間を置いて。
「あとでだ」
「やっぱり触りたいんじゃないですか!」
「先に盗品を返すぞ!」
海底都市の片隅に、メルティの笑い声が響いた。
こうして二人は、消えた高級食材を見つけると同時に――。
食いしん坊らしい、小さな謎の生き物と出会ったのだった。




