第56話
泡導船が、巨大な泡結界の膜を通り抜けた。
――ぽこん。
「……!」
その瞬間、視界いっぱいに、これまで見たこともない光景が広がった。
結界の内側には水がなく、地上と同じように人々が歩いている。けれど頭上を見上げれば、本来空があるはずの場所を、透き通った海が覆っていた。
巨大な魚の影がゆっくりと通り過ぎ、そのさらに上を、何十匹もの発光クラゲが淡い光を放ちながら漂っている。
「……こんな場所が、この世にあるのか」
シルヴァンが呆然と頭上を見上げた。
古代樹海では木々の枝葉が空を覆っていた。
ここでは、その代わりに海がある。
「すごいですよね!」
「ああ……」
街並みもまた、地上とはまるで違っていた。
建物には発光珊瑚や貝殻が使われ、淡い青や紫、緑の光が通りを照らしている。道端には見たこともない魚介を並べた店があり、海底都市の住人たちが賑やかに行き交っていた。
「……」
シルヴァンは、完全に目を奪われている。
メルティはそんな横顔を見て、少し笑った。
「シルヴァンさん」
「なんだ?」
「酒場、探しましょう!」
「……もう少し景色を見るという選択肢はないのか?」
「酒場からでも見られますよ!」
「そういう問題ではないと思うのだが……」
そう言いながらも、シルヴァンは素直にメルティのあとをついていった。
*
二人が見つけたのは、発光珊瑚が壁一面を淡く照らす小さな酒場だった。
店内の大きな窓の向こうでは、魚の群れがゆっくりと泳いでいる。
「深海泡酒を二つ。それから、深海魚のカルパッチョと、深海エビのフリットをお願いします!」
「あいよ。初めて来たなら、いい選び方だ」
店主が笑い、二つの細長いグラスを置いた。
淡い黄金色の酒が注がれていく。
「……」
シルヴァンが興味深そうに覗き込む。
グラスの底から、細かな泡が絶えず立ち昇っていた。
「これが、深海泡酒か」
「飲んでみましょう!」
二人でグラスを持ち上げる。
「いただきます!」
ひとくち。
「……!」
メルティの舌の上で、細かな泡がぱちぱちと弾けた。
冷たい。
口当たりは軽いのに、果実のようなほのかな酸味と、海辺の酒らしいわずかな塩気がある。
「んんっ……!」
隣ではシルヴァンも目を見開いていた。
「……これは面白いな」
「ですよね!」
「さっき船で飲んだものより、泡がずっと細かい」
「こっちが本場ですもんね」
シルヴァンはもう一度、慎重に口へ含む。
「舌の上で消えるのに、香りだけは残る……」
「シルヴァンさん、どんどんお酒の感想が上手になってません?」
「お前といるせいだ」
「いいことですね!」
「……否定はしない」
そこへ料理が運ばれてきた。
「お待ちどう」
まずは深海魚のカルパッチョ。
透き通るような白身が薄く並べられ、その上には柑橘と香草を使ったソースがかけられている。
「いただきます」
メルティがひと切れ口へ運ぶ。
「んんっ!」
身は柔らかいのに、舌の上にはしっかりとした脂の甘みが残る。そこへ柑橘の酸味が加わり、後味は驚くほど軽かった。
「これ、泡酒に合います!」
「確かに」
シルヴァンもグラスを傾ける。
「魚の脂が残ったあとに、この泡が来ると口の中が軽くなるな」
「でしょう?」
「……なるほど」
何やら真剣に頷いている。
「研究みたいになってますよ」
「学ぶために旅へ出たのだから当然だ」
「食べ物の研究も含まれてたんですね」
「今、含まれた」
「今なんですね」
*
続いて運ばれてきたのは、深海エビのフリットだった。
薄い衣をまとった大ぶりのエビが、まだぱちぱちと小さな音を立てている。
「熱そうですね……」
「なら少し待て」
「でも揚げたてが一番美味しいので」
「聞く意味がないな」
メルティは一つ手に取った。
「いただきます!」
さくっ。
「あつっ!」
「だから言っただろう!」
「でも、美味しいです!」
軽い衣の中から、弾力のある身が現れる。噛むほどに海老の甘みが広がり、塩と香草だけの簡単な味つけが、それを邪魔しない。
シルヴァンも一つ取った。
「……これは酒が進むな」
「おっ」
「何だ」
「シルヴァンさんの口から『酒が進む』が出ました」
「……そんなに珍しいことか?」
「ちょっと嬉しいです」
「なぜお前が喜ぶ」
そう言いながら、シルヴァンは自分のグラスを空けた。
「もう一杯頼む」
「――!」
「何だその顔は」
「いえ、成長したなぁって」
「私は子供ではない!」
*
最初のうちは、そんな会話だった。
だが。
三杯目を飲み終えたあたりから、メルティはあることに気づいた。
「……シルヴァンさん?」
「なんだ」
返事は普通。
姿勢もいつも通り。
けれど。
「耳、赤いですよ」
「……エルフの耳は、こういう色だ」
「さっきまで白かったですよ?」
「気のせいだ」
「そうですか?」
「ああ」
シルヴァンは真顔で四杯目へ手を伸ばす。
メルティは、その手をそっと止めた。
「一回、お水飲みましょう」
「なぜだ」
「酔ってません?」
「酔っていない」
「酔ってる人が言うやつです」
「私は冷静だ」
「じゃあ、お水飲めますよね?」
「……」
シルヴァンはしばらく考えた。
「理屈が通っている」
「でしょう?」
素直に水を飲む。
やはり酔っている。
*
「……メルティ」
「はい?」
しばらくして、シルヴァンがぽつりと名前を呼んだ。
普段より少しだけ、声が柔らかい。
「私は、旅に出てよかったと思っている」
「急ですね」
「聞け」
「はい」
「森にいた頃の私は、森の中にあるものだけで、世界を知ったつもりになっていた」
シルヴァンはグラスを眺めた。
「清らかな水。古い木々。里に伝わる教え。それらが間違っているとは思わない」
「はい」
「だが、それだけではなかった」
窓の向こう。
漆黒の海の中を、青白い魚がゆっくりと泳いでいく。
「今日だけでも、初めて海を見た。水の上に造られた街を見た。海の底にも街があると知った」
「……」
「それに、この酒も」
グラスを僅かに持ち上げる。
「森にいたままなら、一生知らなかっただろう」
メルティは黙って聞いていた。
「だから――」
シルヴァンがメルティを見る。
「お前について来て、よかった」
「……!」
あまりにも真っ直ぐ言われ、今度はメルティが少し驚いた。
「ありがとうございます」
「ああ」
「……シルヴァンさん、酔うと素直になるんですね」
「私はいつも素直だ」
「それはどうでしょう」
「何だと?」
メルティは笑う。
「普段だったら、絶対そんなこと言わないじゃないですか」
「言う」
「じゃあ明日、同じこと言ってください」
「もちろんだ」
「覚えてたら聞きますね」
「……覚えているに決まっている」
少し間を置いて。
「たぶん」
「シルヴァンさんまで『たぶん』使い始めた!」
メルティが吹き出した。
*
「それにな」
まだ話は終わっていなかった。
「はいはい」
「私は、お前を少し誤解していた」
「誤解?」
「最初は、ただ酒が飲みたいだけの変わった人間だと思っていた」
「ひどいですね」
「今も酒が飲みたい変わった人間だとは思っている」
「もっとひどくなりました!」
「だが」
シルヴァンは至って真面目だった。
「お前といると、美味いものが増える」
「……?」
「同じものを見ても、お前は『美味しそう』と言う。同じ場所へ来ても、まず『何を食べよう』と考える」
「はい」
「最初は呆れた」
「はい……」
「だが、それも一つの世界の見方なのだと、今は思っている」
メルティが目を瞬く。
「食べることや、飲むことを楽しみにしていれば、知らない場所へ行く理由になる」
「……」
「私は、その理由が結構好きだ」
シルヴァンは、ほんの少し笑った。
「だから、これからも色々見せてくれ」
「――」
メルティの顔にも笑みが広がった。
「もちろんです!」
「うむ」
「じゃあ次のお店も探しましょう!」
「……今からか?」
「いっぱいありますよ!」
「待て」
「深海魚の煮込みとかも食べたいです!」
「待て、メルティ」
「はい?」
シルヴァンが真剣な顔で言った。
「……少し休ませてくれ」
「やっぱり酔ってるじゃないですか!」
「これは……海底の気圧のせいだ」
「結界の中ですよ」
「……」
「お水、もう一杯飲みましょうね」
「……頼む」
メルティは笑いながら水を注いだ。
*
発光珊瑚の淡い光。
窓の向こうを漂う魚たち。
テーブルには、食べかけのフリットと二人分のグラス。
シルヴァンは水を飲みながら、先ほどより少し静かになっていた。
「メルティ」
「はい?」
「……この旅、悪くないな」
「でしょう?」
「ああ」
メルティは嬉しそうに笑い、残っていたフリットを一つ口へ放り込んだ。
深い海の底。
地上では決して見ることのできない幻想的な街で、二人は酒と料理を囲みながら、旅を始めてから初めて、ゆっくりと互いのことを話した。
そしてメルティは知った。
凛として、少し堅くて、何かと小言の多いエルフの旅仲間は――。
どうやら、酒にはあまり強くないらしい。




