第55話
高山地帯を抜け、長い下り坂を歩いていた二人の視界に、これまでとはまったく異なる景色が飛び込んできた。
「――あれは」
眼下いっぱいに広がっているのは、抜けるように蒼い海。
そのほとりには、白亜の建物が幾重にも立ち並び、街の中を無数の運河が縫うように走っている。太陽の光を受けた水面は細かくきらめき、街全体がまるで水の上に浮かんでいるようだった。
「水上都市――ヴェネ=マリス」
メルティが地図を確認しながら呟く。
「ここですね」
「……」
返事がない。
メルティが隣を見ると、シルヴァンは完全に足を止めていた。
「シルヴァンさん?」
「……これが、海か」
「え?」
「見るのは初めてだ」
「――本当ですか!?」
今度はメルティが驚く番だった。
シルヴァンは眼下に広がる蒼を、瞬きも忘れたように見つめている。
「森にも湖や川はある。だが……」
どこまで見ても終わらない水。
潮風に混ざる塩の匂い。
遠くを進む帆船。
どれも、古代樹海の中だけでは知ることのできなかった景色だった。
「こんな世界が、本当にあったんだな……」
その声には、素直な驚きが滲んでいた。
メルティは少しだけ笑う。
「まだまだいっぱいありますよ」
「……そうなのか?」
「たぶん!」
「そこは言い切ってくれ」
「私も全部見たわけじゃないですから」
メルティは楽しそうに坂道を下り始める。
「だから旅してるんですよ」
「……なるほど」
シルヴァンも、もう一度海を見た。
そして今度は、自分から歩き出した。
*
ヴェネ=マリスの水上市場は、昼前から大勢の人で賑わっていた。
石造りの通路の両脇には小舟が並び、それ自体が露店になっている。魚介類、果物、香辛料、色鮮やかな瓶詰め――水の上を行き交う声と匂いに、シルヴァンは忙しなく視線を動かしていた。
「……店が船の上にある」
「面白いですよね」
「落ちないのか?」
「たぶん慣れてるんですよ」
「また『たぶん』か」
その時。
「大エビの香草焼きだよ! 焼きたてだ!」
「――!」
メルティの足が止まった。
「シルヴァンさん」
「言わなくていい」
「え?」
「その顔で分かる」
メルティはすでに炭火へ視線を釘づけにしていた。
「二本ください!」
「あいよ!」
渡された串には、大ぶりのエビが殻ごと香ばしく焼かれている。表面には刻んだ香草と塩が振られ、炭火の匂いと一緒に潮の香りが漂った。
「いただきます!」
殻を外し、身へかぶりつく。
「んんっ!」
弾力のある身から、海の甘みが広がる。香草の爽やかさと炭火の香ばしさもよく合った。
「美味しいです!」
メルティはもう一本をシルヴァンへ差し出す。
「どうぞ」
「……私は別に」
「さっきから見てましたよね?」
「観察していただけだ」
「じゃあ観察しながら食べてください」
「どういう理屈だ」
そう言いつつも、シルヴァンは串を受け取った。
一口。
「……」
「どうです?」
「……うまい」
「素直になりましたね」
「お前と旅をしていると、抵抗するだけ無駄だと分かってきた」
「いいことです!」
「本当にそうか?」
メルティは笑いながら、次の店へ視線を向けていた。
*
夕方。
二人は運河沿いの小さな酒場へ入った。
開け放たれた窓から潮風が入り、すぐ下をゴンドラがゆっくりと通り過ぎていく。メルティとシルヴァンは、地元の白身魚を使った軽い料理と、冷たい酒を楽しんでいた。
「外の世界というのは、本当に食べるものまで違うのだな」
シルヴァンが杯を眺めながら呟く。
「でしょう?」
「里では、これほど魚を食べることもなかった」
「海の近くだと魚介がいっぱいありますからね」
近くの席にいた漁師が、その会話を聞いて笑った。
「兄ちゃん、海は初めてか?」
「……兄ちゃん?」
シルヴァンの眉が動く。
「まあまあ」
メルティが笑いを堪える。
「ああ。森育ちなものでな」
「そりゃ面白い! なら、もっとすげぇもんを見ていくといい」
「すごいもの?」
漁師が杯を傾ける。
「この海の底には、街がある」
「――海の底?」
シルヴァンが聞き返す。
今度はメルティまで身を乗り出した。
「海底都市ですか?」
「ああ。古代魔導の泡結界に守られた街だ。俺たちみたいな漁師が気軽に行く場所じゃないが、今でも交易は続いてる」
「交易?」
「たまに海底都市から珍しい魚や酒が上がってくるんだよ」
メルティの表情が変わった。
「……酒?」
「そこに反応するのか」
シルヴァンが呆れる。
漁師は豪快に笑った。
「『深海泡酒』って聞いたことないか? 深海の低い温度と圧力を利用して寝かせる、ちょいと変わった発泡酒だ」
「深海で熟成……」
「それに、地上じゃまず見ねぇ魚を使った料理もあるらしい」
「……」
メルティは黙った。
「メルティ?」
シルヴァンが警戒するように見る。
そして。
「行きましょう!」
「やはりそうなるのか!」
「だって、海底ですよ!? 深海のお酒ですよ!?」
「分かった。落ち着け」
「シルヴァンさんも見てみたいですよね?」
「……」
返事が止まる。
メルティがにやりとする。
「見たいんですね?」
「……興味はある」
「じゃあ決まりです!」
「最初から私の意見など必要なかったのではないか?」
「そんなことないですよ!」
「今の間は何だ」
漁師たちの笑い声が酒場に響いた。
*
「運がいいな」
酒場の主人から聞いた話によれば、翌朝、海底都市へ向かう小型の交易船が一本だけ出るらしい。
「普段は商人か関係者くらいしか乗らんが、席が空いてりゃ旅人も乗せてもらえる」
「行きます!」
「早いな!」
翌朝。
二人は港に停泊していた、不思議な形の船の前に立っていた。
「これが……泡導船?」
船体の周囲には透明な魔導膜が揺らめき、大きな泡が船全体を包んでいるように見える。
「この結界で海水と圧力を防ぐらしいですよ」
「よく分からん技術だな」
「乗れば分かります!」
「お前は本当に迷いがないな……」
二人は船へ乗り込んだ。
*
泡導船が、ゆっくりと海へ沈んでいく。
「……!」
窓の外を見ていたシルヴァンが、小さく息を呑んだ。
最初は明るい水色だった。
陽光が水面から降り注ぎ、魚の群れが船の周囲を横切っていく。
さらに沈む。
水色は青へ。
青は深い藍へ。
徐々に地上の光が遠ざかり、代わりに暗い海の中で光る小さな生き物が見え始めた。
「……美しいな」
シルヴァンは窓の外から目を離さなかった。
「森とは、全然違いますか?」
「ああ」
しばらくして、ぽつりと続ける。
「だが、不思議だ」
「何がです?」
「まったく違うのに……どこか似ている」
「似てる?」
「暗い場所でしか生きられないもの。互いに身を隠しながら暮らす生き物。光を求めて伸びるもの」
窓の外では、淡く光る魚が群れを作って通り過ぎていった。
「森にも、ああいう生き物はいる」
「なるほど……」
メルティも窓へ顔を近づける。
「シルヴァンさんと一緒だと、見え方がちょっと変わりますね」
「そうか?」
「はい」
その言葉に、シルヴァンはほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。
*
航行の途中、船員が簡単な軽食を運んできた。
「海底都市までまだ時間があるからな。よかったらどうぞ」
出されたのは、白身魚を香草とともにオイルで蒸したものと、この地方で造られた微発泡の白酒だった。
「ありがとうございます!」
「また飲むのか」
「少しだけです」
「その言葉は信用していいのか?」
「……たぶん」
「信用できん」
二人は杯を合わせる。
メルティは白身魚を一口。
「んんっ」
柔らかな身にオイルと香草の風味が馴染んでいる。
そのあとに、よく冷えた酒を少し。
細かな泡が舌の上で弾けた。
「……合いますね」
隣を見る。
シルヴァンも杯を口にしたところだった。
「――!」
長い耳がぴくりと動く。
「何だ、これは……」
「発泡酒ですよ」
「口の中で弾けるぞ」
「そういうお酒です」
「酒が……弾ける……」
初めて遭遇したものを見る顔で、シルヴァンは杯を眺めている。
「面白いでしょう?」
「ああ」
もう一口。
「……これは、かなり好きだ」
「おお!」
「なぜお前が喜ぶ」
「仲間が増えた感じがして」
「何の仲間だ」
「お酒好きの」
「勝手に分類するな」
そう言いながらも、シルヴァンはもう一度杯へ口をつけていた。
*
やがて、外の光はほとんど消えた。
窓の向こうに広がるのは、深い深い闇。
時折、発光する魚が通り過ぎる以外、何も見えない。
「……」
メルティとシルヴァンは、自然と窓の外を見つめていた。
その時。
「あれは……?」
シルヴァンが立ち上がる。
闇の奥。
小さな光が見える。
最初は星のような一点だった。
けれど船が近づくにつれ、その光はどんどん大きくなっていく。
「……!」
巨大な透明の泡。
その内側に、街があった。
色とりどりの発光珊瑚が道を照らし、幾重にも重なる建物の窓から暖かな光が漏れている。頭上には、巨大な魚の影がゆっくりと通り過ぎ、そのさらに向こうには漆黒の海が広がっていた。
「これが……」
シルヴァンが完全に言葉を失う。
「海底都市……」
「わぁ……」
メルティも窓へ手をついた。
今まで見た街とは、まるで違う。
空の代わりに海があり。
鳥の代わりに魚が泳ぎ。
太陽の代わりに珊瑚や魔法の光が街を照らしている。
二人はしばらく、何も言わずその景色を眺めた。
やがてメルティが振り返る。
「シルヴァンさん」
「……なんだ」
まだ海底都市から目を離せていない。
「酒場、どこでしょうね?」
「――お前はこの景色を見て最初にそれなのか!?」
「だって、深海泡酒!」
「少しくらい余韻に浸れ!」
「飲みながら浸りましょう!」
「……」
シルヴァンはしばらく黙ったあと、諦めたように息を吐いた。
「……まあ、それも悪くないか」
「ですよね!」
泡導船は、ゆっくりと海底都市へ近づいていく。
メルティとシルヴァン、二人になって初めて訪れる新しい街。
その海の底で、またどんな味と出会うのか。
メルティは期待に目を輝かせながら、幻想的な街並みを見つめていた。




