第6話
翌朝、メルティが目を覚ますと、宿の外はすでに賑やかな声で溢れていた。
「メルティ様、おはようございます!」
「昨日はありがとうございました! おかげで今朝もこうしてお湯が使えます!」
廊下を歩くだけで、すれ違う人々が次々と頭を下げてくる。すっかり「温泉街の恩人」として街中に知れ渡っていたらしい。当のメルティは、まだ寝ぼけ眼で「んー、おはよう……」とふにゃふにゃ挨拶を返すだけで、ありがたみをあまり実感していない様子だった。
女将に案内されるまま朝風呂に浸かり、たっぷりと温まってから戻ると、部屋にはすでに朝食の支度が整えられていた。
「メルティ様、これは宿からのささやかなお礼です。どうぞゆっくり召し上がってくださいませ」
運ばれてきたのは、湯気を纏った大きな蒸籠だった。温泉の地熱を利用してじっくりと蒸し上げられたそれを開けた瞬間、ふわりと立ち上る湯気とともに、野菜の甘い香りと、脂の乗った肉の芳醇な匂いが広がる。
「わぁ……」
中には、色とりどりの温泉蒸し野菜と、厚切りにされた熟成豚が、ほくほくと湯気を立てながら並んでいた。傍らには、爽やかな柑橘の香るポン酢と、粒の粗い岩塩が添えられている。
そして、朝だというのに、涼やかなガラスの徳利にきりりと冷えた酒が用意されていた。
「これは……」
「地熱生酒でございます。朝の澄んだ空気の中でこそ美味しい、この時期だけの一杯ですよ」
女将の言葉に、メルティの目がきらりと輝いた。
「朝から、お酒……! いただきます!」
まずは蒸し野菜からひとくち。ほろほろと箸で割れるほど柔らかく蒸し上がった根菜は、噛むたびにじゅわりと素材本来の甘みが溢れ出す。ポン酢のさっぱりとした酸味が、その甘みをさらに引き立てていた。
「んんっ、野菜がこんなに甘いなんて……! お出汁いらずでこの旨味……!」
続けて、熟成豚をひとくち。箸を入れただけでほろりと崩れるほど柔らかく、脂身の部分はとろけるように甘い。粗塩をひとつまみつけて頬張れば、肉本来の濃厚な旨味が口いっぱいに広がっていく。
「お肉、とろとろ……! 脂が甘い……!」
そこへ、きりりと冷えた地熱生酒をひとくち。
「――くぅっ!」
すっきりとした喉ごしの奥に、ほんのりとした米の甘みが余韻として残る。朝の澄んだ空気の中、蒸したての野菜や肉の温かさと、キリッと冷えた酒の対比が、これ以上ないほどの多幸感を生み出していた。
「朝から……こんな贅沢していいのかな……」
うっとりと呟きながらも、箸とお猪口を持つ手は止まらない。あっという間に蒸籠が空になり、徳利もすっかり軽くなった頃には、メルティのお腹はぽんぽんに満たされていた。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
満足げに手を合わせるメルティに、女将がにこやかに包みを差し出す。
「メルティ様、これは旅のお供にどうぞ。うちの名物弁当と、少しばかりの路銀です。あなたのような大恩人に、これしかお渡しできないのが心苦しいくらいですよ」
「ありがとう。大切にいただきます」
メルティが包みを受け取ると、隣に座っていた酒場の店主も、名残惜しそうに口を開いた。
「なあ嬢ちゃん、次はどこへ向かうんだ? もし決まってないなら……北の方に、面白い噂があるんだが」
「北?」
店主が身を乗り出す。
「『銀嶺の雪国』ってところでな。一年中雪に覆われた極寒の地なんだが、そこの名物がとんでもねぇんだ。まず、身がギッシリ詰まった『巨大雪蟹』、通称『白銀ガニ』。あれをそのまま茹でて、蟹味噌ごとかぶりつくのが最高でな」
「かに……」
メルティの瞳が、じわじわと輝きを増していく。
「それから、体の芯から温まる『秘伝の海鮮薬膳鍋』もある。極寒の地でしか手に入らねぇ薬草と、新鮮な魚介をたっぷり煮込んだ鍋でな、食った後は体がぽかぽかで一晩眠れるほどだ」
「薬膳鍋……!」
「極めつけは、雪に埋めて冷やす『幻のしぼりたて原酒』だ。搾りたての生原酒を雪の中でじっくり冷やして、キンキンに冷えたところをいただく――これがまた、鍋との相性が抜群でな」
「――!!!!」
メルティは両手をぎゅっと胸の前で握りしめ、目をきらきらと輝かせて立ち上がった。
「かに! 薬膳鍋! しぼりたての原酒……!」
興奮気味に繰り返す小柄な少女の姿に、女将も店主も思わず顔を見合わせて微笑んだ。
「行きます! 私、行きます! 銀嶺の雪国に!」
*
旅支度を整えたメルティが宿を出ると、街中の人々が見送りに集まっていた。
「メルティ様、お元気で!」
「また温泉街に遊びに来てくださいね!」
「気をつけてなー!」
温かな声に包まれながら、メルティはぺこりと頭を下げる。
「みんな、ありがとう。すごく美味しかったし、楽しかった」
そう言って、女将からもらった包みを大事そうに抱え、北の方角へと軽やかな足取りで歩き出す。
湯けむり立ち込める温泉街を振り返り、メルティは小さく手を振った。それから、まだ見ぬ雪景色と、蟹と、薬膳鍋と、しぼりたての原酒に思いを馳せながら、ふふっと笑みをこぼす。
「かに鍋……原酒……楽しみ……!」
春の温かな日差しの中、これから向かうのは、一面銀世界の極寒の地。
どんな景色が、どんな美味しいものが待っているのか――。
メルティの「酒場巡りの旅」は、こうしてまた次の一歩を踏み出したのだった。




