第5話
お猪口を握ったまま、メルティはしばらく無言だった。
外ではまだ「源泉が止まった」「魔物が出た」という叫び声が飛び交っている。店主が真っ青な顔で厨房から飛び出してきて、「お、おい嬢ちゃん、今日はもう店じまいだ、逃げたほうが……」と言いかけたところで、メルティはすっと立ち上がった。
「私のお湯とお酒を邪魔するなんて、許しません」
声のトーンは変わらないのに、店内の空気がひやりと冷えた気がした。
浴衣の帯をきゅっと結び直すと、メルティは店主が止める間もなく、風のように酒場を飛び出していく。
*
火口へと続く山道を、メルティは浴衣に下駄という出で立ちのまま、まるで散歩でもするかのような足取りで駆け上っていった。とはいえその速度は、常人が全力疾走する何倍にも及ぶ。木々が瞬く間に後方へ流れ去り、あっという間に硫黄の匂いが濃くなる火口付近へと到達する。
そこには、無残な光景が広がっていた。
街に湯を供給していたはずの源泉が、巨大な岩の塊によって完全に塞がれている。そしてその岩塊こそが、ゆらゆらと蠢く赤い亀裂を全身に走らせた、体長十メートルはあろうかという『マグマ・ゴーレム』だった。周囲には、その配下と思しき小型の溶岩獣たちがうろつき、湯気の代わりに黒煙を辺りに撒き散らしている。
ゴーレムの巨体が、侵入者に気づいてぎろりとこちらを向いた。
「ゴオオオオオッ!!」
咆哮とともに、口の亀裂から灼熱の溶岩がブレスとなって吐き出される。
――が、メルティはそれを見もせずに、ひらりと横に一歩ずれるだけで軽々と回避した。浴衣の裾がふわりと舞う。溶岩は地面を抉り、後方の岩肌を赤く溶かしながら通り過ぎていった。
「私のお湯を、汚しましたね」
静かな声とともに、メルティの姿がふっとかき消える。
次の瞬間、ゴーレムの巨体を守る岩の装甲に、ぴしり、ぴしり、と亀裂が走った。目にも留まらぬ速さで繰り出された手刀が、装甲の継ぎ目という継ぎ目を的確に叩いていたのだ。
「ゴアッ!?」
ゴーレムが慌てて巨大な拳を振り下ろす。地面が割れるほどの一撃だったが、メルティはそれをひょいと後方へ跳んでかわすと、着地と同時に地を蹴り、今度はゴーレムの脇腹へと肉薄した。
振るわれる指先に、淡く輝く魔力が纏わりつく。
「――ここ」
撃ち込まれた一撃が、分厚い岩の装甲を紙のように貫通した。ゴーレムの巨体がぐらりと揺れ、赤い亀裂がびきびきと全身に広がっていく。
配下の溶岩獣たちが我先にと襲いかかってくるが、メルティは浴衣の袖をひらめかせながら軽やかに身をひるがえし、すれ違いざまに一体、また一体と沈めていく。まるで舞を踊っているかのような、無駄のない動きだった。
「ゴォォォ……ッ!!」
瀕死のゴーレムが、最後の力を振り絞るように巨体をメルティめがけて突進させる。
メルティは真正面から、その巨体の懐に飛び込んだ。
露わになった、胸の中央――脈打つように赤く輝く核。ゴーレムの力の源であるそれを見定めると、メルティは右の拳に、これまでとは比較にならないほどの魔力を凝縮させていく。
「――終わりです」
拳が、核へと吸い込まれた。
ズオンッッ!!!
空気が震えるほどの衝撃とともに、核が粉々に砕け散る。巨大な岩の巨体が、支えを失ったようにぐらりと傾き――ごうっ、と音を立てて崩れ落ちた。
塞がれていた源泉が、堰を切ったように勢いよく吹き上がる。真っ白な湯気とともに、透き通った湯が谷を伝い、街へと向かって力強く流れ出していった。
*
メルティが浴衣姿のまま街に戻ると、そこはすでに大騒ぎになっていた。
「お、お湯が! お湯が戻ってきたぞーーー!!」
「よかった……! 温泉街が、これで終わらずに済んだ……!」
歓喜の声を上げる人々の中を歩いていくメルティを見つけるなり、酒場の店主が飛び出してきた。
「お、お前さん! まさか、あの巨大な魔物を、たった一人で……!?」
メルティはこてんと首を傾げる。
「うん。だって、お湯とお酒の邪魔されたから」
あっさりとした返事に、店主はしばし言葉を失っていたが、やがて涙ぐみながらメルティの両手を握りしめた。
「あんたは、この街の恩人だ! さあ、こっちに来てくれ! 街一番の貸切露天風呂を、今夜だけ嬢ちゃんのために用意させてもらう!」
*
夜。
湯気の立ち昇る貸切露天風呂に、メルティはとろけるような表情で肩まで浸かっていた。目の前には、ちょうどよく浮かべられた小さな木桶。その上には、徳利と杯、そして炭火でじっくり炙られた熟成肉の皿が乗せられている。
湯船に浸かったまま、メルティは徳利を手に取り、杯にとくとくと注いだ。
「――いただきます」
くいっと、熱燗を一気に煽る。
「んはぁーーーっ……!」
じんわりと体の芯から染み渡る熱に、湯の温かさが重なって、得も言われぬ多幸感が全身を包み込んでいく。
続けて、香ばしく炙られた熟成肉を、箸でひとくち。
「んんっ……! お肉、とろける……!」
湯船に浸かったまま味わう肉と酒は、いつも以上に格別だった。星空の下、硫黄の香りに包まれながら、メルティはもう一杯、熱燗を杯に満たす。
「……最高」
小さな呟きが、湯気とともに夜空へと溶けていった。
守られた源泉。取り戻された湯けむり。そして、誰にも邪魔されることのない、至福の温泉酒宴。
メルティの旅は、こうしてまた一つ、美味しい思い出を重ねていくのだった。




