第4話
山道を三日ほど歩いた頃、木々の合間からもうもうと立ち昇る白い湯気が見えてきた。
「……着いた」
メルティの足取りが、途端に軽やかになる。石畳の坂道を下った先に広がっていたのは、あちこちの屋根から湯気が立ち昇る、風情たっぷりの温泉街だった。硫黄の香りが鼻先をくすぐり、木造の宿と赤い提灯が並ぶ通りには、火山の恵みを受けた活気が満ちている。
メルティは迷わず一番大きな宿の暖簾をくぐった。
「一泊お願いします。あと、温泉、すぐ入れますか」
目を輝かせながら早口で尋ねる小柄な少女に、宿の女将は少したじろぎながらも、笑顔で奥の湯殿を指し示した。
*
「はぁぁ……」
露天風呂に肩まで浸かったメルティの口から、深いため息が漏れた。
火山の地熱でじっくりと温められた湯は、とろりとした肌触りで、疲れた体の芯にまでじんわりと染み込んでいく。乳白色の湯の向こうには、夕暮れに染まる山々が広がり、時折吹く風が湯気を優しく揺らしていった。
「ふにゃぁ……」
肩の力がすうっと抜け、いつもの省エネな表情がさらにとろけていく。命がけでダンジョンの奥深くを攻略し続けてきた体が、今ようやく、心の底から「休んでいる」ことを実感しているようだった。
しばらく湯に身を委ね、指先までふやけるほど堪能してから、メルティは満足げに湯殿を後にした。
*
浴衣に着替え、火照った頬のまま向かった先は、温泉街の路地裏にひっそりと佇む、渋い佇まいの酒場だった。赤提灯が揺れる暖簾をくぐり、カウンターの丸椅子にちょこんと腰かける。
「湯上がりに最高のお酒とお肉をください!」
目をキラキラさせながらの注文に、白髪交じりの店主は「そりゃあ嬢ちゃん、うちに来て正解だ」とにやりと笑った。
「うちの名物は決まってらぁ。地熱でじっくり燗をつけた『火之国の熱燗』と、山で獲れた『マグマボア』の岩塩焼きよ」
ほどなくして、湯気の立つ徳利がことりとカウンターに置かれた。地熱を利用した特製の燗付け器で温められたそれは、ほんのりと湯気を纏い、ふわりと米の香ばしい匂いを漂わせている。
小さなお猪口に、とくとくと注がれる琥珀色の熱燗。
メルティは両手でそっとお猪口を包み込むと、じっくりと香りを楽しんでから、ひとくち含んだ。
「……っ、あったかい……」
口に含んだ瞬間、じんわりと広がる米のまろやかな甘み。ふわりと立ち上る芳醇な香りとともに、喉を通った熱がそのまま体の芯までゆっくりと染み渡っていく。湯上がりでじんわりと温まっていた体が、内側からもう一段階、優しく満たされていくような感覚だった。
「湯上がりに熱燗……こんな贅沢、反則すぎる……」
うっとりと呟いたところで、じゅうう、と景気のいい音とともに、真っ赤に熱された溶岩プレートが運ばれてきた。
その上で、分厚く切られたマグマボアの肉が、ジュウジュウと小気味よい音を立てながら焼かれていく。脂がぱちぱちと弾け、香ばしい匂いが一気に鼻腔をくすぐった。表面にはシンプルに岩塩が振られているだけだが、その分、肉本来の熟成された旨味がダイレクトに伝わってくる。
「うわぁ……いい音……」
じゅう、じゅわ、ぱちん――。
目の前で焼かれる音と匂いに、メルティの喉がごくりと鳴った。
頃合いを見計らって、箸で一切れ持ち上げる。断面からじゅわりと肉汁が溢れ出し、湯気とともに濃厚な香りが立ち昇った。
ひとくち。
「んんんんっ……!!」
噛んだ瞬間、ぶわっと口の中に広がる濃密な肉汁。熟成された肉特有の、深く凝縮された旨味が舌の上いっぱいに広がっていく。シンプルな岩塩の塩気が、その旨味をこれでもかと引き立てていた。脂身の部分はとろけるように甘く、赤身はしっかりとした噛み応えとともに、肉本来の力強い味わいを伝えてくる。
「お肉の旨味が濃すぎる……! これはお酒が止まらない……!」
熱々の肉をひとくち、火之国の熱燗をひとくち。交互に繰り返すたびに、口の中で肉の旨味と米の甘みが溶け合い、幸福感が何倍にも膨れ上がっていく。
湯上がりでポカポカとした体に、熱々の料理と熱燗が追い打ちをかけるように染み渡っていく。まるで内側からも外側からも、じんわりと満たされていくような、この上ない幸福感だった。
「……ふへへ」
だらしなく緩んだ表情で、メルティはお猪口を傾ける。
温泉、熱燗、熟成肉――旅の疲れも、かつての戦いの記憶も、この瞬間だけはすべてどうでもよくなるくらいの多幸感に包まれていた。
もう一杯、熱燗をお代わりしようと店主に声をかけようとした、その時だった。
「――お、おい! 大変だぞ!!」
外から、切羽詰まった男の叫び声が響いた。
「山から魔物が下りてきた! 火口付近で異常発生だ!」
続けざま、別の方角からも悲鳴のような声が上がる。
「源泉が……源泉が止められちまった!? どういうことだ、お湯が全然出てこねえぞ!」
店内がにわかにざわめき始める。客たちが不安げに顔を見合わせ、何人かは慌てて席を立って外の様子を見に行った。
箸を止めたメルティは、片手にお猪口を持ったまま、ぴたりと動きを止める。
その瞳に、先ほどまでのとろけるような表情はもう残っていなかった。
――お酒とお肉の邪魔をされるのは、一番嫌いなのだ。
「……お湯、止まっちゃったの?」
静かな呟きが、湯気の立ち昇る酒場に、小さく落ちた。




