第3話 百年熟成の秘蔵酒と、至福の〆ごはん
しん、と静まり返っていた店内が、次の瞬間、割れんばかりの歓声に包まれた。
「や、やったぁあああ! ついにロブの奴らがぶちのめされたぞ!」
「嘘だろ、あの図体がまさか指一本で……!」
「嬢ちゃん、あんた最高だよ! 俺たち、あいつらにどれだけみかじめ料むしり取られてきたか……!」
拍手と歓声、そして涙ぐむ声までもが入り混じる。荒くれ者の客たちが次々とメルティのテーブルに集まってきては、握手を求めたり、肩を叩いたりする。
当の本人はといえば、集まる称賛にはさして興味もなさそうに、「んー」と気の抜けた返事をしながら、皿に残ったガーリックオイルの最後の一滴までバゲットで拭い取ることに集中していた。
店主は震える手で床のロブたちを店の外に叩き出すと、カウンターの奥、埃をかぶった木箱の前に立った。
「嬢ちゃん……いや、メルティさんだったな。あんたのおかげで、この店は救われた。長年の悩みの種が、たった一晩で消えちまったんだ」
厳かな手つきで木箱の蓋を開けると、そこには漆黒の陶器の壺が一本、大切そうに横たえられていた。
「これは俺の親父の代から仕舞い込んでた秘蔵酒――『深海龍の涙』だ。海溝の底でしか採れねぇ幻の果実を、百年熟成させた代物でな。金輪際、客に出す気はなかったんだが……今夜だけは特別だ」
とぷん、と栓を抜く音がする。
立ち上った香りに、メルティの鼻がひくりと動いた。
「……っ、これ、すごい香り」
濃厚な果実の甘さの奥に、潮の香りを思わせる複雑な風味が幾重にも重なっている。まるで長い年月そのものを閉じ込めたような、深みのある芳香だった。
小さなグラスに、とろりと琥珀色の液体が注がれる。
メルティは両手でそっとグラスを持ち上げ、まず香りを楽しむように鼻先に近づけた。それから、ひとくち。
「……はぁ……」
ため息とともに漏れたのは、深い、深い満足のため息だった。
「甘いのに、後からしっかり大人の苦味がくる……! それに、この舌の上でとろけるような滑らかさ……! これは、時間が味方した酒の味……」
うっとりと目を細める少女の様子に、店主は満足げに頷くと、今度は厨房に向かって声を張り上げた。
「よし、〆はあれでいくぞ! おい、今日獲れたクラーケンの頭、まだ残ってたよな!」
ほどなくして、湯気の立つ土鍋がカウンターに運ばれてきた。
ぐつぐつ、ぐつぐつ――白い湯気の向こうから、香ばしい焦がし醤油の匂いが立ち昇る。クラーケンの旨味をたっぷり吸い込んだ濃密な出汁の中で、ふっくらと炊かれた米粒が、とろりとした照りを纏いながら踊っていた。仕上げにとろりと溶き入れられた卵が、出汁全体をまろやかな黄金色に染め上げている。
「クラーケンの濃密出汁と焦がし醤油の雑炊だ。海の旨味を全部この一杯に詰め込んでやったからな」
メルティは、待ちきれないとばかりにれんげを手に取った。
まずひとさじ、ふうふうと息を吹きかけてから口に運ぶ。
「んんんっ……!!」
海鮮の旨味が凝縮された出汁が、口の中いっぱいに広がっていく。焦がし醤油の香ばしさが鼻に抜け、その後を追うように、とろとろの卵が全体をまろやかに包み込む。米粒はしっかりと出汁を吸っているのに、芯のほうにはほんの少し歯ごたえが残っていて、食感まで完璧だった。
「出汁の旨味が……お米一粒一粒に染み込んでる……! 卵のまろやかさが、全部をひとつにまとめてくれる……!」
ふうふうと熱々のまま頬張っては、時折『深海龍の涙』をひとくち。芳醇な甘みと苦味が、出汁の余韻をまた新たな味わいへと変えていく。
「……最高」
小さな呟きが、静かに満たされていく店内に溶けていった。
*
翌朝。
港町の宿の一室に、柔らかな朝日が差し込んでいた。
「んー……よく寝た」
ふかふかの布団から起き上がったメルティは、大きく伸びをする。窓の外からは、漁港特有の賑やかな声と、潮の香りが漂ってきていた。
身支度を整え、旅装に着替えると、荷物をまとめて宿を後にする。
港へと続く道すがら、昨夜の酒場の前を通りかかると、ちょうど店主が仕込みの準備をしているところだった。
「おっ、メルティさん! もう出発か?」
「うん。ごちそうさまでした。すごく美味しかった」
メルティがぺこりと頭を下げると、店主は嬉しそうに笑って、それから何かを思い出したように手を打った。
「そうだ、あんた、次はどこに向かうんだ? もし決まってねぇなら――」
店主は南の方角を指さした。
「山を越えた先に、火山麓の温泉街があるんだが、あそこは知る人ぞ知る名所でな。とろとろの温泉に浸かった後に食う地元の熟成肉が、そりゃあもう絶品なんだ。それに、火山の熱でじっくり燗をつける『火之国の熱燗』ってのが、これがまた……」
「――!!」
店主の言葉を最後まで聞く前に、メルティの瞳が、朝日よりも眩しく輝いた。
「温泉と……美味しいお肉と……熱燗……!」
小さな両手をぎゅっと握りしめ、期待に胸を膨らませる少女の姿は、まるで遠足前の子供のようだった。
「店主さん、ありがとう! じゃあ、行ってきます!」
元気よく手を振ると、メルティはくるりと踵を返し、南の山道に向かって軽やかな足取りで歩き出す。
その背中を見送りながら、店主は苦笑した。
「……とんでもない嬢ちゃんだったな。次の街の連中は、いい意味でも悪い意味でも、震え上がるだろうぜ」
潮風になびく銀色の髪。
伝説の元SSSランク冒険者の「酒場巡りの旅」は、まだ始まったばかりだった。
目指すは、火山麓の温泉街――そこに待つのは、極上の湯と、とろける熟成肉と、体の芯まで温める一杯の熱燗。
メルティの足取りは、どこまでも軽やかだった。




