第2話 私のお酒、こぼしましたね?
三杯目のエールが空になった頃、店主がにやりと笑ってカウンターの奥から何かを持ち上げた。
「嬢ちゃん、その飲みっぷり気に入った。これはメニューにゃ載せてねえ、俺の裏メニューだ。特別にご馳走してやるよ」
どん、と置かれたのは、小さな土鍋。ぐつぐつ、じゅわじゅわと、オリーブオイルが小気味よい音を立てて泡立っている。中には殻ごとぶつ切りにされた深海大蝦が、たっぷりの潰しニンニクと真っ赤な唐辛子に埋もれるようにして踊っていた。
「深海大蝦の熱々ガーリックオイル煮だ。バゲットも付けといたから、オイルに浸して食いな」
立ち上る湯気とともに、焦がしニンニクの香ばしい匂いと、蝦の甘い磯の香りがふわりと鼻先をくすぐる。メルティの瞳が、ぱあっと輝いた。
「……いい匂い」
まず添えられたバゲットを一切れ手に取り、じゅわりと音を立てるオイルの中にどぷんと浸す。カリッとした表面が、みるみるうちにオイルを吸って飴色に染まっていく。
一口。
――サクッ、じゅわ。
「んんっ……!」
外側の香ばしさの奥から、蝦の旨味とニンニクの風味を存分に吸い込んだオイルがじゅわりと溢れ出す。噛むたびにパンの繊維の間からオイルが染み出し、口の中いっぱいに広がっていく幸福感。メルティはうっとりと目を細めた。
「これは……ずるい……」
続けて蝦にフォークを刺し、殻から引き抜くように身をひとくち。ぷりっとした弾力のある身を噛み締めれば、ぷちんと弾ける食感の奥からじゅわっと甘い出汁が溢れ出す。ぴりっとした唐辛子の刺激がアクセントとなり、後を引く美味しさだった。
「はふっ、熱っ……でも美味しい……!」
そこに、冷えた黒波エールをひとくち。
「くぅーーーっ! ガーリックオイルの熱と旨味を、冷たいエールの喉ごしがすうっと流していく……! この温度差、反則……!」
カウンターに突っ伏さんばかりの多幸感に浸るメルティ。周囲の客たちも、その食レポとも言えない食レポにつられて、次々と裏メニューを注文し始めていた。
――と。
からんっ、と扉が乱暴に開いた。
「よぉ、波止場亭のオヤジ。今月のみかじめ料、まだもらってなかったよなあ?」
入ってきたのは、柄の悪い一団だった。先頭に立つ大柄な男は、腕にいくつも入れ墨を彫り込み、値踏みするような目つきで店内を睥睨している。
店主の顔が、さっと強張った。
「ロブ……お前ら、今月はもう払っただろう」
「あぁ? 聞こえねえなあ。もう一回払ってもらわねえと、この店、火の海になっちまうかもしれねえよなあ?」
店内の空気が、ぴりっと張り詰める。他の客たちは目を伏せ、そそくさと会計を済ませようとする者もいた。
ロブと呼ばれた男は、へらへらと笑いながら店を物色するように歩き回り――やがて、幸せそうに蝦を頬張るメルティの席で足を止めた。
「なんだこの嬢ちゃん。こんな時間にガキが酒場に……ん?」
テーブルの上、なみなみと注がれたばかりの四杯目のエールに目をつけると、男はにやりと下卑た笑みを浮かべた。
「おら、退屈しのぎだ」
どん、と、大きな手のひらでテーブルを乱暴に小突く。
ジョッキが揺れ、透き通った琥珀色の液体が、ちゃぷんと零れてテーブルに小さな水たまりを作った。
――時が、止まった。
箸を持ち上げようとしていたメルティの手が、ぴたりと止まる。
オイルとエールの匂いに緩んでいた表情から、すうっと感情が消えていった。
「……」
彼女はゆっくりと、こぼれたエールの染みを見つめる。それから、まだへらへらと笑っているロブの顔を見上げた。
「……私のお酒、こぼしましたね?」
声は、驚くほど静かだった。
「あ? だから何――」
ロブが言い終わるより先に、彼の巨体が動いた。苛立ちに任せて振り上げられた拳が、小柄な少女目掛けて真っ直ぐに振り下ろされる。
店内の誰もが、目を覆いたくなるような光景を想像した。
――が。
メルティは、左手に持ったジョッキの中身を一滴もこぼさぬまま、右手の人差し指を一本、すっと持ち上げただけだった。
こつん。
その指先が、迫りくる巨漢の腹に軽く触れた――ように見えた瞬間。
ズドンッッ!!!
地鳴りのような衝撃音とともに、ロブの巨体が店の床を突き破らんばかりの勢いで叩き伏せられた。木の板が悲鳴を上げるように軋み、埃が舞い上がる。ロブは白目を剥き、ぴくぴくと痙攣しながら、声にならない呻きを漏らすばかりだった。
しん、と店内が静まり返る。
誰も、何が起きたのか理解できていなかった。あの小柄な、儚げな少女の指先ひとつが、この港町で恐れられていたロブの一団のリーダーを、瞬き一つの間に沈めてしまったのだ。
残された取り巻きたちは、ガタガタと震えながら後ずさり、誰一人として動くことができない。
そんな中、メルティだけは、こぼれずに済んだジョッキをことりとテーブルに置くと――先ほどまでの冷たい表情が嘘のように、ふわりと花が咲くような笑顔に戻った。
「店主さん」
「……は、はい!」
「バゲットのお代わりと、お酒追加で♪」
あまりに普段通りの、あどけない注文だった。
凍りついていた店主は、我に返ったように何度も頷き、慌てて厨房へと駆け込んでいく。
床に転がったロブの一団を、客たちが遠巻きに見つめる中、メルティは何事もなかったかのように、残ったガーリックオイルにバゲットを浸し、また幸せそうに頬張り始めた。
「……ん、やっぱりこの熱々のうちが一番美味しい」
じゅわり。
小さな口から漏れる呟きだけが、静まり返った店内に、やけにのんびりと響いていた。




