第1話 伝説のダンジョンを制覇したので、冒険者やめます!
最深部――第九十九層。
ボス部屋の空気は、まだ焦げた鱗と血の匂いを引きずっていた。
全長二十メートルはあろうかという漆黒の竜、通称「深淵竜」が、巨大な図体を横たえてぴくりとも動かない。三百年の間、誰一人として突破できなかった伝説の最終防衛ライン。その死体の前に、傷ひとつない――それどころか返り血の一滴すら浴びていない、小柄な少女がちょこんと立っていた。
「……ふわぁ」
欠伸をひとつ。ふわふわの銀髪を揺らしながら、メルティは飽ききった目でドラゴンの死体を見下ろす。身長は百四十センチそこそこ。制服のようなローブは着崩れることもなく、まるで散歩帰りのような佇まいだった。
「メルティ殿おおおおおおお!!!」
地響きのような歓声とともに、ギルド長のガストンが駆け込んでくる。屈強な体躯の初老の男が、涙と鼻水を垂らしながら少女に飛びつかんばかりの勢いだった。
「ついにやった! ついに最深部制覇だ! 三百年誰も届かなかった深淵竜を単独討伐だなんて……! これでメルティ殿は正真正銘、歴代最強のSSSランクだ! 次は未踏領域――『世界の裂け目』だな! いや、大陸中がお前を英雄と呼ぶぞ!」
背後からも冒険者たちが続々と押し寄せ、地下空間は歓喜の坩堝と化していく。
そんな喧騒のただ中で、メルティはひとり、心底どうでもよさそうな顔をしていた。
「あ、私」
ぽつり、と。
「今日で冒険者やめます」
ボス部屋がしん、と静まり返った。
「……は?」
「ダンジョン飯とポーション、もう飽きたので。手続きとか面倒なんで、ギルドの方は適当に除名しておいてください」
少女はそれだけ言うと、くるりと踵を返して風のようにボス部屋を後にする。呆然と立ち尽くすガストンと一同の間を、まるで最初からそこにいなかったかのように、するりと通り抜けていった。
*
潮風が頬を撫でる、辺境の港町。
石畳の路地の奥、古びた木製の看板がぎいと軋む、小さな酒場があった。看板には掠れた文字で『波止場亭』とある。夕暮れ時だというのに、店の中はもう漁師や冒険者崩れの荒くれ者たちで賑わっていた。
その扉を、からんと鳴らして開けたのは――冒険者の装備を脱ぎ、旅装のワンピースに着替えたメルティだった。
カウンターの端の丸椅子に、ちょこん、と腰かける。足が床に届かず、ぶらぶらと揺れている。
その姿を見た店主――日に焼けた強面の中年男が、カウンターを拭く手を止めて、困ったように眉を下げた。
「お嬢ちゃん。悪いことは言わないから、うちは酒場だよ。ジュースが飲みたいなら、隣のカフェに行きな」
どこからどう見ても、迷子の少女にしか見えなかったのだから、無理もない。
メルティは返事代わりに、ポケットに突っ込んでいたままの黄金のプレート――返却し損ねていたSSSランクのギルドカードを思い出したように取り出し、ドン、とカウンターに置いた。
そこにはこう記されていた。
『冒険者ランク:SSS』『年齢:24歳』『成人済み』
「……えぇぇっ!?」
店主の絶叫が店内に響き渡り、談笑していた客たちが一斉にこちらを振り向いた。
「に、二十四!? 嘘だろ、どう見たって十五、六の……いや、SSS!? SSSランクって、あの伝説の……!?」
メルティは店主の狼狽など気にも留めず、ふにゃりと目を細めて、ようやく口を開いた。
「一番強い地酒と、一番美味しいお肉料理をください」
店主はしばし固まっていたが、やがて観念したように、額の汗を拭って厨房に向かって声を張り上げた。
「……お、おい! 特上のクラーケン、あぶってくれ! あと、一番強え『黒波エール』、なみなみ注いでやれ!」
ジュウッ、という景気のいい音が厨房から漂ってきたのは、それからほどなくのことだった。
厚切りにされたクラーケンの脚肉が、熱した鉄板の上で弾け、香ばしいニンニクと醤油の匂いが店内いっぱいに広がっていく。表面はぱりっと香ばしく焼き目がつき、中はまだしっとりと弾力を残した、極上の照りを纏った一皿。湯気とともに立ち上る匂いだけで、腹の虫が我慢できずに鳴きだしそうな香りだった。
どん、とカウンターに置かれる大皿。そして――少女の両手では抱えきれないほど大きなジョッキに、こぼれんばかりに満たされた琥珀色のエール。表面の泡は白く濃密で、まるで生クリームのようだった。
メルティの、ふわりとした儚げな面立ちに、初めて生気が宿る。
華奢な両手で、ずしりと重いジョッキをぐいと持ち上げた。
「――いただきます」
こく、こく、こく、こくこくこくこく――!
傾けた喉が、驚くほどのリズムで鳴り続ける。半分は経過しただろうジョッキの中身が、あっという間に減っていく。
「プハァーッ!!」
ジョッキをカウンターに置くと同時に、少女の顔いっぱいに、この世のものとは思えないほど至福の笑みが咲いた。
「五臓六腑に染みわたる……! はぁ……この黒波エール、ホップの苦味の奥にちゃんと麦の甘みが立ってる……! しかも喉ごしがめちゃくちゃ強いのに、後味はすっきり……! 最高……」
うっとりと呟くと、今度はクラーケンの肉に箸を伸ばす。ぷりっと弾力のある身に、じゅわりとにじむ肉汁。ひと口かじれば、香ばしいニンニク醤油の香りが鼻に抜け、噛むたびに肉の甘みと磯の旨味が口いっぱいに広がる。
「んんっ……!! お肉ぷりぷり……! 味濃いめのタレが最高にお酒進む……!」
少女は幸せそうに頬を緩ませ、再びジョッキに手を伸ばす。
その一部始終を、店内の荒くれ冒険者たちは、箸も酒も止めたまま、ただただポカンと見つめていた。
「……お、おい。あの華奢っつうか、儚げっつうか……どう見ても十五、六の嬢ちゃんが……」
「あの『黒波』を、あんな勢いで……しかも笑顔で……」
「顔色ひとつ変わってねえぞ……」
「化け物か……?」
誰かがぽつりと漏らした「化け物」という言葉に、隣の男が真顔で頷いた。
当の本人はといえば、そんな視線などまるで気づかぬ様子で、三杯目のエールを注文しながら、幸せそうに次の肴を吟味している。
――かくして。
大陸中を震撼させた伝説のSSSランク冒険者、メルティの「第二の人生」は、辺境の港町の、小さな酒場から静かに幕を開けたのだった。
目指すは、未踏領域などではない。
この大陸に存在する、あらゆる酒場――そのすべてだ。




