第53話
「――こちらだ」
長老とシルヴァンに案内され、メルティは古代樹の根元にある石段を下りていった。
地上から離れるにつれて空気はひんやりと冷たくなり、森の匂いも薄れていく。壁には淡い青白い光を放つ発光石が埋め込まれ、その先には大小さまざまな木樽や瓶が整然と並んでいた。
「わぁ……」
思わず声を潜める。
酒蔵というよりも、大切なものを眠らせるための宝物庫のようだった。
「ここは、我らの熟成庫だ」
長老が静かに言う。
「月光果から造った酒は、ここで長い時を過ごす。数年のものもあれば、我らより長く眠っているものもある」
「我らより……」
メルティの視線が、奥へ吸い寄せられる。
「何年くらいですか?」
「それを今から見せよう」
「……!」
長老は楽しそうに笑い、さらに奥へ歩いていった。
*
一番奥。
そこだけは木樽ではなく、古い木箱が並べられていた。
長老がその一つを慎重に開く。
「これは――」
中から現れたのは、深い琥珀色の瓶だった。表面には古い文字が刻まれた札が結ばれている。
シルヴァンがそれを見て、目を見開いた。
「長老……まさか、それを?」
「ああ」
長老は頷いた。
「月光樹が再び実を結んだ日に開けようと、先代から受け継いできたものだ」
メルティが、ごくりと喉を鳴らす。
「……何年ものですか?」
「六十八年」
「――六十八年!?」
思わず大きな声が出た。
「そんなに!?」
「声が大きい」
シルヴァンが眉をひそめる。
「す、すみません」
「ふふ。六十八年と聞けば、そうなるのも無理はない」
長老は楽しそうに笑いながら、瓶を大切そうに取り出した。
「六十八年前に採れた月光果を使い、蜂蜜とともに仕込んだエルダームーンだ。その後、樽で熟成させ、最も状態の良い時に瓶へ移して眠らせてある」
「六十八年……」
メルティはもう一度呟いた。
これまで飲んできた酒とは、時間の重みそのものが違う。
「本当に、私が飲んでいいんですか?」
「もちろんだ」
長老は月光樹のある地上を見上げるように目を細めた。
「あの樹が再び花を咲かせ、果実を結んだ。それだけで、この酒を開けるには十分な理由だ」
そして瓶の封印へ手をかける。
「それに――」
長老がメルティを見る。
「この日のために残してきた酒ならば、今日以上に相応しい日はあるまい」
「……!」
古い封が、ゆっくりと外される。
――ぽん。
小さな音が、静かな熟成庫に響いた。
その瞬間。
「……っ」
メルティの目が大きく見開かれた。
甘い。
けれど、単純な蜂蜜の甘い香りではない。
熟した果実を思わせる濃密な香り。その奥から花や木、乾いた香草のような複雑な香りが、少しずつほどけるように広がってくる。
「まだ飲んでないのに……すごいです」
「慌てるな」
シルヴァンが言う。
「分かってます。でも、これは慌てます」
「どちらなのだ」
*
細い脚のついた小さな杯へ、エルダームーンがゆっくりと注がれた。
色は深みのある黄金色。発光石の明かりを受け、杯を傾けるたびに、とろりと光が揺れる。
「まず香りを楽しむといい」
長老に言われ、メルティは杯を鼻先へ近づけた。
「……」
先ほど瓶を開けた時とは、また違う。
蜂蜜。
熟した果実。
花。
その奥に、古い木樽を思わせる落ち着いた香り。
「……すごい」
何度嗅いでも、違う香りが見つかる。
メルティはしばらく杯を眺めていた。
そして。
「――いただきます」
ほんの少しだけ、口に含んだ。
「――」
動きが止まる。
長老もシルヴァンも何も言わず、その反応を待った。
「……んんっ」
ようやく、小さな声が漏れた。
口に入れた瞬間は、蜂蜜を思わせる柔らかな甘み。けれど、すぐに果実の酸味が追いかけてくる。
甘い。
なのに重たくない。
飲み込んだあとには、花や薬草を思わせる香りと、わずかな渋みが長く残った。
「……美味しい」
メルティはゆっくり目を開いた。
「これ、本当にすごいです」
「そうか」
「最初は甘いのに、あとから全然違う味が出てきます。それに、飲み終わったのにまだ香りが残ってる……」
もう一度、少しだけ口にする。
「六十八年って……こういう味になるんですね」
「六十八年経てば何でもこうなるわけではないぞ」
「そうなんですか?」
「当然だ」
シルヴァンが呆れる。
「ならないんですね……」
「そこからなのか」
長老が声を上げて笑った。
*
「こちらも合わせてみるといい」
続いて出されたのは、以前に収穫して保存されていた月光果の塩漬けと、木の実や香草を練り込んで薄く焼いたクラッカーだった。
「月光果!」
「新しく実ったものではないぞ。昔の収穫を保存したものだ」
「分かってます!」
メルティは月光果の塩漬けをひとつ取る。
「いただきます」
ひとくち。
「……!」
果実そのものは柔らかく、ほのかな甘酸っぱさが残っている。そこへ塩気が加わり、味がきゅっと引き締まっていた。
続けてエルダームーンを少し。
「んんっ!」
先ほどより、酒の甘みがはっきり感じられる。
「全然違います!」
「同じ月光果から生まれたものだからな。相性はいい」
「これ、交互にずっといけますね」
「ずっとは飲むな」
「はい」
「返事だけはいいな」
今度はクラッカー。
ぱりっとした食感の後から、木の実の香ばしさとハーブの爽やかさが広がる。
「……これも合います」
甘い酒。少し塩気のある果実。香ばしい木の実。
派手ではないのに、一つ食べればまた酒が欲しくなり、酒を飲めば次の一口が欲しくなる。
「幸せです……」
メルティがうっとりと呟く。
その表情を見て、長老は満足そうに頷いた。
そしてシルヴァンも――。
「……」
無言で自分のクラッカーへ手を伸ばしていた。
「シルヴァンさんも、こういうの好きなんですね」
「昔からある里の食べ物だ。当然だ」
「じゃあ今度、別のお酒にも合う料理を作りましょう」
「……」
「シルヴァンさん?」
「悪くない提案だ」
「やっぱり好きじゃないですか」
「うるさい」
*
その夜。
里では、月光樹の回復を祝う小さな宴が開かれた。
月光果が収穫できるようになるのはまだ先のこと。それでも、消えかけていた花が戻り、新しい実が生まれたことは、里のエルフたちにとって十分すぎるほど喜ばしい出来事だった。
宴の終わり際、長老がメルティへ一冊の本を差し出した。
「メルティ殿。旅の役に立ててほしい」
「これは?」
「この森に生える薬草や香草についてまとめたものだ」
手に取ると、かなり使い込まれた写本だった。
「薬としての使い方だけではない。食用にできるもの、酒へ香りを移せるもの、毒になるものも記されている」
「お酒にも?」
すぐに反応する。
「そこか」
長老は苦笑した。
「里の秘術そのものを持ち出すことはできんが、外を旅する者へ渡すための知識をまとめた写本だ。お前なら、面白い使い方をするだろう」
「ありがとうございます!」
メルティは嬉しそうに本を抱えた。
「大切にします!」
*
翌朝。
旅支度を整えたメルティが里の入口へ向かうと、そこにシルヴァンが待っていた。
いつもの装束。
腰の剣。
けれど背中には、昨日までなかった旅荷物がある。
「……?」
「シルヴァンさん、どこか行くんですか?」
「お前とだ」
「私と?」
「ああ」
あまりにも当然のように返され、今度はメルティが首を傾げた。
「なぜです?」
「……長老には、すでに許可を得ている」
シルヴァンは一度、里の方を振り返った。
「今回のことで思い知った。我々は、この森の中だけで完結しすぎていたのかもしれない」
「……」
「月光樹のこともそうだ。昔のやり方を捨て、清らかさばかりを求めていた。外の土地で、人や植物がどう生き、何を食べ、何を育てているのか――私は知らなすぎる」
そして、メルティを見る。
「だから、一度外を見てみたい」
「なるほど……」
「それに」
「それに?」
「……」
シルヴァンが一瞬だけ視線を逸らした。
「お前と旅をしていれば、各地の料理も知ることができるのだろう?」
「――!」
メルティの顔が一気に明るくなる。
「もちろんです!」
「酒も?」
「もちろん!」
「珍しい食材も?」
「いっぱいあると思います!」
「そうか」
ほんの僅かに、シルヴァンの口元が上がった。
「ならば、なおさら同行する価値がある」
「結構そっちも大きいですよね?」
「学術的関心だ」
「そういうことにしておきます」
「……何だその顔は」
メルティはくすくすと笑った。
「いいですよ。一緒に行きましょう!」
「――」
今度はシルヴァンが少し驚いた。
「そんな簡単に決めていいのか?」
「嫌な人だったら断ってますよ」
「……」
「でもシルヴァンさん、一緒にご飯食べたら楽しそうですし」
少し間を置いて。
「森のことも詳しいですしね」
「順番が逆ではないか?」
「どっちも大事です!」
「……そうか」
シルヴァンは諦めたように息を吐く。
けれど、その表情はどこか嬉しそうだった。
「では、改めてよろしく頼む。メルティ」
「はい! よろしくお願いします、シルヴァンさん!」
こうしてメルティの一人旅に、初めて旅を共にする仲間が加わった。
*
――それから数日後。
遠く離れた王都。
「……古代樹海の月光樹が回復した?」
執務室で報告書を読んでいたアルベルトは、どこか誇らしげに笑った。
「さすがはメルティだ」
報告書をめくる。
「幻の酒も無事に飲めた、と……」
さらに一枚。
「相変わらずだな」
口元が緩む。
だが。
次の一文を読んだところで、その指が止まった。
「……」
もう一度読む。
『なお、古代樹海の門番を務めていた若いエルフ、シルヴァンが、メルティ殿の旅へ同行した模様』
「……同行?」
静寂。
「若いエルフ……男?」
報告書には、そう記されている。
「……」
アルベルトは背もたれへゆっくりと体を預けた。
「まあ、よい」
平静な声だった。
「旅の護衛が増えるのであれば、私としても安心だ」
こつ。
指先が机を叩く。
「……」
こつ、こつ。
「……それだけだ」
誰に言うでもなく呟く。
そしてしばらくして、報告書をもう一度手に取った。
「シルヴァン、か……」
その名前だけを確認するように呟いた声は、ほんの少しだけ低かった。




