第51話
長老とシルヴァンに案内され、メルティが辿り着いたのは、里の最奥だった。
「……これが、月光樹」
思わず足を止める。
目の前に立っていたのは、これまで見てきたどんな大樹よりも巨大な一本の樹だった。太い幹は何人もの大人が手を繋いでも囲みきれないほどで、枝は高く空へ伸びている。
けれど、その姿には明らかに元気がなかった。
本来なら淡い青白い光を纏うという幹は艶を失い、乾いた木肌がところどころ露出している。枝についた葉も少なく、残ったものさえ先端から茶色く変わり始めていた。
風が吹く。
はらり。
また一枚、葉が落ちた。
「……かなり弱ってますね」
「ああ」
長老が沈んだ声で答える。
「以前なら、この時期には淡い花が枝を覆っていた。その花が落ちたあとに、月光果が実る」
「今年は?」
「花すら咲かなかった」
「……」
メルティは大樹を見上げた。
近くでは、数人のエルフが幹や葉を調べている。書物を開いている者、魔法を使って樹の状態を確かめている者もいた。
「我々も手は尽くしました」
白髪交じりの学者が疲れた表情で口を開く。
「病を疑い、薬を使った。呪いも調べた。浄化の術も施しましたが、どれも効果はありません」
「虫とかは?」
「見つかっていません」
「根が腐ってたり?」
「それもない」
「うーん……」
メルティは月光樹へ近づいた。
幹へ、そっと手を触れる。
ひんやりとした木肌。
奥には確かに生命の気配がある。死にかけているわけではない。
けれど――弱い。
「お腹が空いてるみたい……」
「……木の話をしているのだぞ?」
シルヴァンが横から言う。
「分かってますよ」
「ならいいが」
メルティは根元へしゃがみ込んだ。
土をひと掴みする。
「……?」
さらさらとしている。
色も薄い。
嫌な匂いはない。
むしろ――ほとんど匂いがしない。
メルティは少し離れた場所へ移動すると、今度は普通の古木の根元から土を取った。
「こっちは……」
色が違う。
月光樹の周囲より黒く、湿り気がある。朽ちた葉や細かな木片が混ざり、土らしい匂いもした。
メルティは両手の土を見比べる。
「シルヴァンさん」
「なんだ?」
「月光樹の周りって、いつもこんなに綺麗なんですか?」
「……綺麗?」
「落ち葉とか、枯れた枝とか、全然ないですよね」
言われてみれば、月光樹の周囲には落ち葉一枚ほとんど残っていなかった。
シルヴァンは当然のように答える。
「聖なる樹だからな。毎朝、管理を担当する者が清めている」
「落ち葉も全部?」
「当然だ」
「腐った葉とかも?」
「残す理由があるのか?」
「……なるほど」
メルティの目が少し細くなる。
「水は?」
「里の奥から湧く聖泉の水だ」
長老が答えた。
「最も清浄な水を選び、月光樹へ与えている」
「昔からずっとですか?」
「もちろん――」
そこで。
「……いや」
シルヴァンが口を挟んだ。
全員の視線が集まる。
「どうしたんですか?」
「昔、祖父から聞いたことがある」
シルヴァンは月光樹の根元を見つめた。
「祖父が若い頃は、森で集めた腐葉土を、この辺りへ戻していたそうだ」
「腐葉土?」
「ああ。落ち葉が朽ちた土や、木の実の殻、古くなった薬草などを混ぜたものだ。森番の仕事の一つだったと聞いた」
白髪の学者が眉を寄せる。
「だが、そのようなものを聖域へ持ち込む習慣は、とうに廃止されたはずだ」
「いつ頃からですか?」
「さて……」
長老が記憶を辿る。
「数十年前だったか。月光樹には、より清浄な環境こそ相応しいという考えが広まり始めたのは」
「それ以降は?」
「枯れ葉や腐葉土を取り除き、清めた土を補い、聖水を与えている」
「……」
メルティは、もう一度二種類の土を見比べた。
「それかもしれません」
「何?」
「たぶん、この樹……ずっと豪華な水だけ飲んで、ご飯を食べてないんです」
「……は?」
全員が黙った。
メルティは月光樹の根元の土を指さした。
「水が綺麗なのが悪いわけじゃないと思います。でも、樹って水だけで育つわけじゃないですよね?」
「それは、まあ……」
「こっちの森の土には、落ち葉とか木の実とか、いろんなものが混ざってます」
メルティは普通の古木の根元から取った、黒っぽい土を見せる。
「でも月光樹の周りは、すごく綺麗です」
「……」
「綺麗すぎるくらい」
メルティは指先で土を崩した。
「ずっと落ち葉を片づけて、朽ちたものも取り除いて、清めた土と水だけを与えてきた」
「まさか……」
白髪の学者の顔色が変わる。
「土そのものが、痩せているというのか?」
「たぶんです」
「だが、魔力の濃度には問題がない!」
「濃ければいいんでしょうか?」
「……何?」
メルティは少し考える。
「お酒だって、すごく甘いだけじゃ美味しくないですよね」
「酒?」
「料理だって、お肉だけじゃなくて、野菜とか塩とか香草とか、いろいろ合わせるから美味しくなります」
「……」
「土も同じなんじゃないですか?」
学者たちが顔を見合わせる。
「一つのものがたくさんあるより、少しずついろんなものがある方が、樹には必要なのかもしれません」
シルヴァンが月光樹を見上げた。
「……昔は腐葉土を戻していた」
「はい」
「それをやめてから、少しずつ土が痩せていった……?」
「すぐには影響が出なかったんだと思います」
メルティも樹を見上げる。
「大きな樹ですし、最初は自分の中に蓄えてたもので頑張れた。でも、それをずっと使い続けて――」
落ちてきた一枚の葉を受け止める。
「とうとう、花や実をつける余裕がなくなった」
「……」
静寂が落ちた。
長老はしばらく月光樹を見つめていた。
「我らは……」
低く呟く。
「この樹を大切にするあまり、森から切り離してしまったというのか」
メルティは少し考えてから答えた。
「まだ決まったわけじゃないです」
「……?」
「試してみないと」
にっこり笑う。
「違ったら、また別の原因を探せばいいです」
シルヴァンが小さく息を吐いた。
「随分と簡単に言うな」
「分からないまま悩んでても、樹は元気にならないですから」
「……そうだな」
「まずは、この樹にご飯を作ってあげましょう!」
「ご飯?」
「はい!」
メルティは立ち上がった。
「森の腐葉土。落ち葉。木の実の殻。使い終わった薬草。それに、この山の土や石に含まれてるものも、少しずつ」
指を折りながら数えていく。
「いろんなものを混ぜて、月光樹が食べられる土を作ります!」
「待て」
シルヴァンが眉を寄せる。
「何でも入れればいいというものではないだろう」
「もちろんです」
「……分かっているのか?」
「たぶん!」
「不安になる返事をするな!」
思わず学者の一人が吹き出した。
シルヴァンがそちらを見る。
「……何がおかしい」
「い、いや。すまない」
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
長老も、小さく笑う。
「では、どうする?」
「まずは少しだけ試しましょう」
メルティは月光樹の根元を指さした。
「いきなり全部の土を変えるんじゃなくて、根の一部だけ。森の土を混ぜて、様子を見るんです」
白髪の学者が目を見開く。
「なるほど……」
「それなら、もし間違ってても被害は少ないですよね?」
「……確かに」
シルヴァンも頷いた。
「私も手伝おう」
「本当ですか?」
「ああ。森の土や植物についてなら、お前より私の方が詳しい」
「それは助かります!」
「当然だ。ここは私の森だからな」
シルヴァンはそう言って、わずかに口元を上げた。
「お前は料理担当にでも徹していろ」
「樹のご飯も料理ですよ?」
「……そういう意味ではない」
「じゃあ、終わったら人間用のご飯も作りますね」
「――!」
一瞬。
シルヴァンの長い耳がぴくりと動いた。
「……別に、それを期待して手伝うわけではないぞ」
「何も言ってませんよ?」
「……」
メルティは笑いを堪えながら、月光樹を見上げる。
「待っててくださいね」
弱った枝の向こうには、青い空が広がっていた。
「ちゃんと、お腹いっぱいにしてあげますから」
そして少し間を置き、小さく付け足す。
「……そうしたら、エルダームーンも飲めますし」
「結局そこなのだな」
「大事なので!」
こうして、メルティとシルヴァン、そしてエルフの学者たちは、月光樹を蘇らせるための『土づくり』に取りかかることになった。




