第49話
標高が上がるにつれ、メルティの足元には、いつしか一面の雲海が広がっていた。
「――わぁ……」
真っ白な雲が、柔らかな絨毯のように遥か眼下を覆っている。時折差し込む陽光がその表面を淡い金色に染め、冷たい風が頬を撫でていった。
メルティは何度も足を止め、その景色に見入った。
「本当に、空の上みたいですね……」
雲の向こうには高い峰々が並び、振り返れば、これまで歩いてきた街道はもうほとんど見えない。
そんな雲上の道をさらに進んだ先で、景色が再び変わった。
「……!」
巨大な樹々が立ち並ぶ森が、山の中に広がっていた。
古代樹海。
太い幹には淡く光る苔が広がり、木々の間には薄い霧が漂っている。森全体が静かに呼吸しているような、どこか神聖な空気が満ちていた。
「ここですか……」
メルティはゆっくりと森へ近づく。
そして、一歩踏み込もうとした瞬間。
――バチッ。
「わっ」
目の前の空間が淡く光り、弾かれるように足が止まった。
「……結界?」
メルティは手を伸ばす。何もないように見える空間に触れた瞬間、透明な膜のような光が波紋を広げた。
「かなり強いですね」
「――そこまでだ、人間よ」
「!」
凛とした声が響く。
結界の向こうから、一人の若いエルフが姿を現した。
長い耳に、整った顔立ち。緑と銀を基調とした装束を纏い、腰には細身の剣を提げている。
「ここから先は我らエルフの聖域だ。人間の立ち入りは許されていない」
冷ややかな視線がメルティへ向けられる。
「幻の酒を求めて来たのだろうが、無駄だ。大人しく引き返せ」
「……」
メルティは少しだけ眉を寄せた。
「エルダームーン、ここにあるんですか?」
「なっ……!」
エルフの表情がわずかに動く。
「やっぱりあるんですね」
「今のは聞かなかったことにしろ!」
「でも――」
「帰れ!」
「むぅ……」
メルティは残念そうに結界の奥を見つめた。
とはいえ、入れないものは仕方がない。
「……分かりました」
「……え?」
あまりにもあっさりした返事に、エルフが拍子抜けしたような顔をする。
「分かった、だと?」
「はい。勝手に入るのは駄目ですもんね」
「そ、そうだ。それでいい」
「じゃあ――」
メルティは近くにあった平らな岩へ歩いていき、荷物を下ろした。
「お昼ご飯にします」
「――は?」
*
メルティは岩の上へ座り、荷物を広げ始めた。
「な、何をしている!」
「お昼です」
「それは聞いた!」
「お腹が空いたので」
「引き返すのではなかったのか!?」
「食べたら帰りますよ?」
「……」
あまりにも当然のように答えられ、エルフは言葉を失った。
メルティは気にすることなく、荷物から湖畔の街でもらった干物やハーブ、途中で買った熟成チーズ、それに残しておいた干し肉を取り出していく。
「今日は何にしましょうかね……」
腰から星銀のナイフを抜いた。
まず干し肉を薄く切る。
――すっ。
続いてチーズ。
こちらも刃を軽く滑らせるだけで、綺麗な薄切りになった。
「……」
結界の向こうから、エルフがじっと見ている。
メルティは小型の魔導炉を取り出し、平たい鉄板を置いた。その上へ薄切りの肉を並べ、チーズを重ね、最後に湖畔の街でもらったハーブをぱらぱらと散らす。
「よし」
火を入れる。
じゅうっ。
肉の脂が熱で溶け、鉄板の上で小さな音を立てた。
チーズの縁がゆっくりと柔らかくなり、ハーブが熱を受けた瞬間、爽やかな香りが立ち上がる。
「んー……いい匂い」
肉の香ばしさ。溶け始めたチーズの濃い香り。そこへ、黄金ハーブの爽やかさが重なる。
山の冷たい風が、その匂いを森の入口へと運んでいった。
「……!」
結界の向こうで、エルフの長い耳がぴくりと動いた。
メルティは気づかないふりをして、肉をひっくり返す。
じゅうっ。
「……」
エルフの視線も、それを追う。
チーズが溶け、肉の上へゆっくり広がっていく。
「……何だ、その料理は」
ついに声が飛んできた。
「これですか?」
メルティは振り返る。
「炙ったお肉にチーズを乗せただけですよ。湖畔の街でもらったハーブも使ってます」
「……そうか」
「いい香りですよね」
「別に」
「そうですか?」
「……別に、何とも思わん」
エルフは腕を組み、顔を背けた。
けれど、その長い耳だけはメルティの方を向いたままだった。
「そろそろですね」
メルティは焼き上がった一枚を取る。
熱々のチーズが細く伸びた。
「いただきます」
ひとくち。
「んんっ……!」
香ばしく炙られた肉の塩気に、溶けたチーズの濃厚さが重なる。そこへハーブの爽やかな香りが加わり、重くなりすぎず、次の一口を誘った。
「美味しい……!」
「……」
「これ、すごく合いますね」
もう一口。
「んふぅ……」
「……」
静かな森の入口で、メルティだけが幸せそうに昼食を楽しんでいる。
その時。
――ぐぅぅぅ。
「……」
「……」
二人の間に、沈黙が落ちた。
メルティはゆっくりと顔を上げる。
エルフは顔を背けたまま、耳まで赤くなっていた。
「今――」
「何も聞いていないな?」
「……はい」
「絶対に聞いていないな?」
「はい」
メルティは素直に頷いた。
そして、もう一枚の肉を鉄板へ乗せる。
じゅうっ。
「……なぜ増やした」
「余ったので」
「……一人で二枚食べるのか?」
「どうしましょうかね」
「……」
メルティは、ちらりと結界の向こうを見る。
「食べたい人がいたら、分けてもいいですけど」
「……!」
エルフの長い耳が、ぴんと立った。
「べ、別に私は――」
じゅうっ。
肉の脂が弾ける。
とろけたチーズの香りが、また風に乗った。
「……」
「無理しなくていいですよ?」
「無理などしていない!」
「そうですか」
メルティは何食わぬ顔で肉を返した。
エルフは結界の向こうで腕を組んだまま、必死に平静を保っている。
けれど、その視線だけは――。
もう完全に、二枚目の肉から離れなくなっていた。




