第48話
湖畔の街を発つ朝。
メルティを見送りに来ていたのは、青波亭の店主や漁師、農夫たちだった。朝靄の残る広場の向こうでは、すっかり活気を取り戻した湖が朝日を反射している。
「いつでも帰ってきてくれよ! あんたはうちの恩人なんだからな!」
青波亭の店主が、大きな包みをメルティへ押しつける。
「これは?」
「この辺りで採れるハーブだ。ムニエルに使ったのと同じものも入ってる。旅先で料理する時にでも使ってくれ」
「わぁ……ありがとうございます!」
メルティは嬉しそうに包みを抱えた。
すると今度は、漁師たちが別の包みを差し出してくる。
「こっちは湖の魚を干したもんだ。旅の途中で炙って食いな!」
「昨日獲れたばっかりだからな。脂も乗ってるぞ!」
「絶対美味しいやつですね!」
「食い物の話になると、本当に分かりやすいなぁ」
周囲から笑い声が上がる。
農夫からは、旅でも持ち歩きやすい根菜をいくつか受け取った。
「こんなにたくさん……」
「いいんだよ。水が戻ったおかげで、また畑をやり直せるんだから」
「……」
メルティは一瞬だけ黙り、それから大切そうに荷物を抱え直した。
「ありがとうございます。全部、美味しく食べます!」
「そこは任せた!」
また笑い声が広がった。
「それじゃあ、行ってきます!」
「ああ! またな!」
メルティは何度も振り返りながら、街道へ歩き出した。
朝日に輝く湖。
賑わいを取り戻した港。
そして、遠くから手を振る人たち。
「……また来ましょう」
小さく呟き、メルティは新たな旅路へと足を進めた。
*
湖畔を離れるにつれ、景色は少しずつ変わっていった。
広々とした草原が終わり、街道はゆるやかな上り坂へ変わっていく。さらに進めば木々も広葉樹から針葉樹へ姿を変え、空気には少しずつ冷たさが混じり始めた。
「だいぶ登ってきましたね……」
メルティは立ち止まり、振り返る。
遠く眼下には、先ほどまでいた湖が小さく見えていた。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
山々の間を白い雲がゆっくり流れ、その向こうにはさらに高い峰が連なっている。道端にはところどころ雪が残り、踏めばしゃりっと小さな音を立てた。
メルティは大きく息を吸う。
「……冷たい」
澄み切った空気が肺いっぱいに入ってくる。
「でも、気持ちいいですね」
少しだけ景色を眺めてから、再び歩き始めた。
*
昼を過ぎる頃には、さすがに体も冷えてきた。
「温かいもの、食べたいですね……」
そんなことを考えていた時、峠道の先に白い湯気が見えた。
「……!」
小さな露店だ。
屋台の前には大きな蒸籠と鍋が並び、そこから絶えず湯気が立ち昇っている。
「あったかいもの、ください!」
「あいよ! この辺の名物なら、肉蒸し包子と薬膳生姜スープだな!」
「それ、お願いします!」
店主が蒸籠の蓋を開ける。
ぶわっと白い蒸気が広がり、その中からふっくらと膨らんだ包子が姿を現した。
「熱いから気をつけな!」
「いただきます!」
メルティは両手で包子を持ち、ふうふうと息を吹きかける。
そして、ひとくち。
「――んんっ!」
もちもちとした生地の中から、熱い肉餡が現れる。刻んだ野菜と肉の旨味を含んだ汁が口いっぱいに広がり、ほんのり甘い生地とよく合った。
「あつ……! でも美味しいです!」
冷たい山道を歩いてきた体には、それだけでご馳走だった。
続いて、生姜の香りが立つスープを飲む。
「んくっ……」
舌の上には優しい塩気。そのあとから、生姜のぴりっとした刺激と薬草の香りが追いかけてくる。
「んふぅ……」
メルティは両手で器を包み、ほっと息を吐いた。
「生き返ります……」
冷えていた指先まで、少しずつ温かくなっていく。
「山で食べる温かいご飯って、なんでこんなに美味しいんでしょう」
「そりゃ、腹減って寒けりゃ何でもうまい!」
「それもありますね!」
店主と笑いながら、メルティは残ったスープまで綺麗に飲み干した。
*
すっかり体も温まり、もう一つ包子を頼もうか迷っていた時だった。
「そういや嬢ちゃん」
「はい?」
「このまま山の上まで行くつもりか?」
「そのつもりです」
「だったら、面白い噂を一つ教えてやろうか」
「噂?」
メルティが首を傾げる。
店主は少し声を落とした。
「この山のずっと上に、人が滅多に近づかない深い森があるんだがな。そこには昔から、とんでもなく珍しい酒があるって話だ」
「……酒」
メルティの姿勢が変わった。
「どんなお酒ですか?」
「食いつきが早ぇな」
「大事なところなので」
店主は苦笑しながら続ける。
「果実と蜂蜜を使って、何十年もじっくり寝かせる酒らしい。名を――」
少し間を置く。
「『エルダームーン』」
「……!」
メルティの瞳が大きく見開かれた。
「何十年も熟成させた……果実蜜酒……?」
「ああ。俺も見たことすらないけどな」
近くで休んでいた行商人も、話に加わる。
「その噂なら俺も聞いたことがある。香りだけで酔いそうになるとか、一口飲めば忘れられなくなるとか……まあ、話がどこまで本当かは知らんが」
「……」
「嬢ちゃん?」
メルティは無言で立ち上がった。
「行きます」
「え?」
「そのエルダームーン、飲みに行きます!」
「いやいや、待て! 今のはただの噂だぞ!?」
「噂なら、確かめればいいんです!」
「軽いな!?」
メルティはすでに荷物を背負っていた。
「店主さん、ごちそうさまでした!」
「お、おう……」
「包子もスープも、とっても美味しかったです!」
そう言って数歩進み――。
ぴたりと止まる。
「……あ」
「どうした?」
「包子、もう一個ください。歩きながら食べます」
「結局食うのか!」
*
熱々の包子を紙に包んでもらい、メルティは再び山道を登り始めた。
見上げれば、雲の向こうまで続く高い山々。
そのどこかに、本当に幻の酒があるのか。
「エルダームーン……」
名前を口にするだけで、期待が膨らんでいく。
「どんな味なんでしょう……」
果実の甘み。
蜂蜜の香り。
何十年もの熟成。
まだ一滴も飲んでいないのに、想像だけで足取りが軽くなった。
「絶対、飲んでみたいです!」
寒さも。
険しい山道も。
その先に何が待っているのかも、まだ分からない。
それでもメルティは、幻の一杯『エルダームーン』を求めて、さらに山の奥へと歩みを進めていった。




